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伊織が湯呑に手を伸ばすと、中身が底にうっすらと残っているだけになっていた。口に含めば茶だったものはすっかり冷めきっており、風味などどこにも感じられはしない。
見廻りのついでにしては随分と長居をしていたのだと改めて気づく。
「用は済んだ。長居をしたな」
「いえ、そんな」
「何も買わないというのも困るだろう。何か買っていくか」
「手前共としましては、それは勿論買っていただけましたら大変喜ばしいことではございますが。どうぞご無理はなさらず」
商人が金銭面において武士を小馬鹿にすることは間々あることだが、文七の今の発言は本心からのものだろう。それでも伊織としてはぐうの音も出ない。ここは彼の申し出に甘えた方が良いかもしれないが、それでも伊織にだって面目や見栄のようなものはある。
「なら、そうだな、紅を見繕ってもらえるか。品はお前に任せる」
「紅でございますね。承知いたしました。暫しお待ちくださいませ。すぐにお持ちいたします」
文七は軽く頭を下げると駆け足で表の店の方へと向かっていった。
待つ間、伊織は己の財布を広げ、中身を確認する。鐚一文ないということはないが、値の張るものには手が届きそうにない。もしもの時はつけてもらうしかないかもしれないな、虚ろな目で遠くに目を向ける。
そんなことを考えているうちに文七がまた駆け足で戻ってきた。部屋に入ってきた時点で文七の息は上がっている。
「お待たせいたしました」
「早いな。ほとんど待っていないが」
「こちら紅にございます。小さくはございますが、中に入ってございます紅は上物と呼べますもので。少しでも多くの方の手に渡りますよう、敢えて少量にてお売りしております品でございます。いかがでございますか」
「あぁ、貰おう」
「ありがとうございます」
文七が値の張り過ぎない物を用意してくれたお蔭でどうにかこの場で支払うことができた。財布の中身が更に心許なくなったが、致し方ないこと、と割り切ることにする。
舟宿で文七の相伴に預かることが原s実見を帯びてきた。
「邪魔をした」
帰ろうと廊下に出た所で、伊織の足が止まる。これだけ長居をして買ったのは小さな紅一つ。気分の問題と言ってしまえばそれまでなのだが、正面から帰りにくい。
伊織の気持ちを察してか文七は、よろしければ、と恐る恐る声を掛けてきた。
「裏からお帰りになられますか? 本来でしたらお客様を裏からなど憚られますが」
「奥から二本差しが出てくるというのも、店としてはあまり見られたくない、か?」
「いえ、そのようなことは、決して」
伊織の言葉を文七は強く否定はしなかったということは、そういうことなのだろう。
「では、お言葉に甘えるとしよう」
「すぐにお履物をこちらにお持ちいたします」
二本差しが出てくれば良くも悪くも目立つことは間違いない。損と得、どちらが多いか天秤が揺れ、はっきりと言えないのが伝わってくる。
客間の前の中庭を抜け、裏の板塀にある潜り戸まで回る。押して開けた先は店の横にある道だ。
「では、また夜にお目にかかるかと」
「良いと言うや否やすぐ来るな。別に良いが」
伊織は苦笑交じりに言うと、腰の刀を気にしながら潜り戸に合わせて頭を低くした。
「花菱様は本当によろしいのですか?」
文七は伊織の背中を見つめているうち、思わず口をついて出てしまった。本当は一生言うつもりも訊くつもりなかったが、一度出始めた思いは止まらない。
「きくは私より花菱様の方が」
「選んだのはきくだ」
伊織の一言が文七の言葉を遮る。
伊織は既に潜り戸を抜けた後で、文七から顔を見る事はできない。
ですが、と続きを言おうと文七も潜り戸から道へ身を乗り出すと、伊織は、話は終わり、と言わんばかりにその場を離れていた。
買ったのは文七。買われることを選んだのはきく。伊織は祝福してくれている。
人混みの中に消えていく伊織を見つめながら文七は己にそう言い聞かせ、そっと潜り戸の戸を閉めた。一緒に胸の中に漂う妙な敗北感に蓋をする。
考えない方が良い。見ないふりをするのが一番だ。己以外もそうしているのだから。
文七はゆっくり息を吐いて心を落ち着けると、何事も無かったかのように店に戻った。
お読みいただきありがとうございます。
おかしいですね。今回はうたた寝もなく、今日書き始めて、てっぺん前には入力を始められたというのに。何故。
やはり、今日書くのが間違いだった、ということでしょうか。
実は、もう一作品並行して連載投稿していこうと考えております。
この後投稿予定ですが、今から入力初めて、粗筋考えて、設定して、とやっていたら夜が明けそうな気がします。流石に明日の仕事に響きそうな時間を迎えたら一度寝よと思います。
一応本日中には投稿するつもりですので、よろしければそちらも覗いていただければと存じます。
宜しくお願い申し上げます。




