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「ありがとうございます」
女将は畳に額を擦りつけるように頭を下げた。きくも同様に頭を下げている。
女将にとっては大金が入る。飯盛女にとっては苦界から抜け出せる。身請けとは双方にとって千載一遇の機会なのだ。なんとしても成立させたいのだろう。だからこそこれだけ必死になっている。
「明日、また来る。答えはそこで聞こう」
「承知いたしました。今夜はどうぞごゆるりとお過ごしになってくださいませ」
女将はすぐに部屋を去り、二人だけが残された。
「身請けされるんだな」
「はい」
「めでたいことじゃねぇか。ようやくここから抜け出せるんだ。よかったじゃねぇか」
「そう、ですね」
伊織の祝いの言葉に、きくはどこか思いを隠すように視線を他所へ流した。手の中にある櫛を更に握りこむ。
身請けされれば身を売ることはもうなく、苦界を出て、自由にどこへでも出かけることができる。
人によっては家に閉じ込め、自由を与えない者もいる。
一人の男に買われるかだけで、数の違いに過ぎないと言われればそれまでかもしれない。飯盛女を辞め、一人の男と所帯を持つことは世間一般から見れば幸せを掴んだと言えるだろう。
しかしきくの顔にはどことなく影が差している。彼女は彼女でこの身請けに思うところがあるのかもしれない。
それらを酌んだ上で、伊織は全て吞み込んだ。
口を挿んで身請け話を荒らしても、伊織がきくにできることは何もない。助けを求められて手は差し伸べても、すくい上げることはできないのだから。
伊織にできるのは、この盗人騒動を収めるのに手を貸すことと、祝ってやることしかないのだ。
「酒宴を開いて盛大に、とはできないが、祝い酒といこう。金が無くてすまないな」
「いえ、花菱様にこうして祝っていただけるだけで」
「そうか」
窓の外、障子の向こう側から騒がしい声が部屋に届く。伊織ときくはただ静かに酒を傾ける。用意された酒が無くなると、床に就く支度を始めた。
伊織は袴から着流しと楽な居住まいとなり、きくも長襦袢と何とも守りの弱そうな恰好まで着ている物を脱いだ。
膳が隅へと除けられ、布団が広げられる。
ともすればそのまま、という姿の二人だが、ただ同じ布団に横になっただけ。何かする様子など一切見せず、伊織は寝息を立て始めた。
仕事もあるが気疲れもあったのだろう。女が横にいるとは思えない速さで夢の中へと旅立った。
現に残されたきくは、人差し指で伊織の頬をつつくと、いたずらっ子のように少し笑い、彼の腕を身に引き寄せたまま同じく眠りにつく。周囲は相変わらずの騒がしさ。
そのまま夜は過ぎ去り、舟宿とは思えぬほど健全な目覚めを伊織は迎えた。
勤めが始まる前に一度帰宅を、と太陽の頭が山の端から少し覗き始めた時にはすっかり帰り支度を整える。きくは未だ夢うつつなのか、布団からなかなか脱出できずにいる。
いつもならきくが出られる恰好になるまで待つところだが、この日に限っては置いて部屋を出た。
一階へ降りると女将が客たちの見送りの為に番台近くに控えていた。客が少なくなったのを見計らい女将に声を掛けると、何の話か察したのか、近くの部屋へ引っ張り込まれた。
「昨夜の話の続きなんだが」
「はい」
「今夜来るのはいいんだが、今後のことを考えると、その、懐が少し不安でな。何度もとなれば尚の事だろう。多少勉強してはくれないか」
「それは勿論」
「助かる」
「その代わりと言っては何ですが、一つお願いが」
「なんだ」
女将は周りを見回してから伊織の耳に手を添え、口を耳に近づけると、今以上にひそめた声で囁いた。
「ご友人の三石様にはご内密に」
人が増えて騒ぎが露見するのを避けたいのもあるのだろうが、兵衛の場合は調査よりも遊びが先行してしまいかねないと案じての事だろう。
分かった、と伊織が答えるより先に襖が開けられ、まさに話していた兵衛がそこにいた。
お読みいただきありがとうございます。
あと数分のタッチの差でした。が、てっぺんを過ぎてしまいました。申し訳ありません。
既に何度も後書にて議題に上がっていますが、「なぜ、ギリギリにならないとできないのか」。
人生最大の疑問です。
何年か前、テレビCMでよく見かけたやる気スイッチとやらが一体どこにあるのか。
ひとつなぎの大秘宝くらい見つからない気がします。




