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酒は空になった膳の上へ飛び散る。きくは驚きながらも噎せる伊織の背中をさすった。咳払いで呼吸を整え、きくを下から睨み上げた。
「誰から聞いた。そんな話」
「え、でも、三石様が」
「兵衛が?」
「身重の方を家に置いていて、忙しいから暫く来られないって、言われて」
「それで何で俺の子だよ」
「だって、女中でもない、関係の無い女を家に置くなんておかしいもの」
普通に考えればそうだろう。伊織も、翁からの依頼がなければわざわざ面倒事の種でしかないえんを家に置いて助けるようなことはしない。きくがそう思い込んでしまうのも無理ないことだ。
「兵衛も半端に話しやがって」
「違うのですか?」
「えんとは、うちに置いていた女とはそういう関係じゃない。人に頼まれて置いていただけだ」
「頼まれた? 誰に?」
「俺の知り合い」
「その人がその女の人の面倒見るんじゃ駄目だったの?」
「一つ所に留まるような奴じゃなくてな。家も無いしな」
「人に押し付けるくらいなら最初から手を出そうとしなければ良いのよ」
「生憎だが、そいつの子でもない。誰の子とも知れぬ子を孕み、生家で酷い扱いを受けていたのを助けて欲しいと言われてのことだ。あまりの扱いだったから俺も納得の上で引き取っただけだ。生きていれば女中にと思っていたんだがな」
「お人好し」
「そんなことはねぇよ」
話しているうちに徳利の中が空になる。きくは立ち上がると、廊下へ顔を出す。空いた膳を下げさせ、酒を追加で持ってくるように声を掛けた。
手がすき、懐から出した煙管に火を点ける。一吸いすると、戻ってきたきくが強請るように体を摺り寄せてきた。吸口を向けると、きくは煙管が彼の手の中にあるまま口へ咥えた。
ふと、彼女の髪に挿された櫛が目に入った。色も入っていない安価な品で、あしらわれている菊の花びらがいくつか欠けている。
「きく、この櫛」
「あ、これは」
慌てたように己の髪から櫛を抜き取り、両手の中へと隠す。菊の目が泳ぐが、伊織は櫛の握られた手をじっと見つめる。
「その、懐かしいでしょう。花菱様が昔、櫛も簪も持っていないって言ったらくださった」
「このところ挿していなかっただろう」
「歯が欠けたりしたから流石に客前に挿して出るのも、と思って。でも、くださった花菱様の前だし、久し振りに刺そうかなって」
「確かに。久し振りに見たな」
まだ馴染みの一人もきくに付いていなかった頃、一つくらいは持っておくべきだ、と伊織が贈った。何年も前のことである。
しかし、ここ数年はきくに貢ぐ客も現れ、櫛や簪も上等な物を身につけていた筈だった。伊織には誰かからも貰う度、誇らしげに身に着けてきて、彼の贈ったものは普段使いとなって、彼の目には映らなくなった。
長く使ってくれていたことは贈り主として嬉しいが、こうして持ち出してくることはきくにしては珍しいことである。何より、一層明るく話しながらも一向に櫛を見せようとしない。
「別に俺が贈ったものだからって無理に使ってみせなくてもいいぞ」
「無理になんて」
「長く使っていれば綻びも出てくる。上等な物を身に着けた方が女の格も上がる」
「そうかもしれないけど。たまにはさ。ほら、使ってあげないと」
「お気に入りだって言っていた、色の着いたのがあっただろう。それはどうした」
「今日は気分じゃなかっただけで」
「簪は? 櫛と一緒にいつも挿していただろう。今日は一つも挿していない」
伊織がきくの髪へ手を伸ばすと、逃げるように距離を取る。櫛は胸の前で握りしめられたままだ。
「今から挿してきても良いぞ。着飾ったお前を見るのは嫌いじゃない」
伊織の提案にきくは嬉々と応えて部屋を出るようなことはなく、ただその場に固まって動かない。何を言えばいいのか分からずに、口をまごつかせるばかりで何も言わない。
不自然な反応から、何かあるという伊織の勘は当たっているようだった。
「その、最近、よく物を失くして」
なんとか出した答えには不自然な笑みが添えられている。嘘だろう。
「店から出られないのに失くすのか? 店の中ひっくり返せばすぐに見つかるだろう」
「それは」
「盗まれたのか?」
きくは何も答えない。無言は肯定を表していた。
お読みいただきありがとうございます。
ギリギリにならないと書けない癖、どうしたら治るのでしょう。
仕事でも期限ギリギリに書類が上がるなど、最早癖を通り越して習性にまでなっている気がします。
しっかし、きくさんの口調もどうやったら定まってくれるのやら。




