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ふじやの中には既に客が入っており、締め切られた障子戸の向こうから笑い声が漏れ聞こえてくる。兵衛が馴染み故か、女将が出迎えてきた。
伊織たちは草履を脱ぐと二階へと案内される。
階段を上がる直前、廊下の突き当りに立ち尽くす女の姿を伊織は見た。兵衛に反応がない様子から伊織にしか見えていないらしい。つまり、妖怪の類ということだ。女は乱れた長い髪を纏めもせず垂らし、前を向いているのか後ろを向いているのか分からない。髪は帯を隠す程に長い為、遠目では本当に見当がつかないのだ。そんな姿の女が廊下の三叉の所に立っていれば、反応しない方がおかしいくらいだ。
しかし女の妖怪はただ立っているだけで、誰かを害そうとするような意志は感じられない。伊織は見えていないふりをした。ただいるだけならば問題はないと判断したのだ。
二階に上がり、通された部屋は兵衛と別だった。いつもなら二人同じ部屋へ通される。きくが伊織に話があるようなことを仄めかしていたので兵衛が気を利かせたのか、きく自身が手配したのだろう。
窓を開ければ舟の着いている岸と川、道には誘い誘われる男と女が入り乱れていた。夜はこれからが本番である。店の外からも中からも聞こえる笑い声混じる喧騒に、伊織は心静かに耳を傾けた。
えんが家に来てからというもの、気を抜ける時は無かった。何も考えず、ただのんびりと時が過ぎるのを感じる。
たまにはこういう時間も良いものだ、と窓の桟に身を預けながら、夜風に吹かれ続けた。
「何か面白いものでもあったの?」
すぐ隣から声がした。はじかれたようにそちらを見れば、同じようにきくが窓の外を眺めている。見つめていると、伊織の視線に気づいたきくが顔を彼に向け、こてん、と小首を傾げてみせた。
「いつ入ってきた」
商売女らしいあざとい仕草など意にも介さず伊織は部屋の中へ目を向ける。室内には既に酒と食事の用意がされ、配膳してであろう若い衆たちの姿は無い。伊織が外に気を取られている間に済ませられていた。
「入る時声を掛けたのに全く気付いてなかったのはそっちでしょ」
「すまない」
「何見てたんだい?」
「別に、なんとなく、眺めていただけだ」
「そう」
それ以上会話は続かず、二人で黙って川岸の道行く人々を眺めた。
きくは外を眺めながら、時々伊織の方をちらちらと窺ってくる。早く食事の席について欲しいのか、何か話したいことがあるのか。伊織を気にするばかりで何も切り出してはこない。
「ひとまず飯にでもするか」
「はい」
飯は正解ではなかった。きくの表情は未だ晴れない。それでも食事の間に何かしら話すことが出てくるだろう。
そう気楽に考えていた伊織だが、すぐに間違いだと気付いた。
会話が無い。きくから何も言ってこない。話題を振りもしない。そのくせ何か言いた気に伊織の顔を窺い見ては、口を開いて閉じるだけ。膳の内には漬物を一枚残すのみ。じれったくなった伊織は、自ら切り出すことにした。
「何か話があるのか? それとも兵衛に何か聞いたか?」
きくは図星を突かれたように、びくりと肩を跳ねる。そのまま少し躊躇って、伊織の顔を斜め下から覗き込んだ。
「あの、暫く忙しくしていて、来られなかった、と」
「そうだな」
「家に女を囲ったとか」
「語弊があるが、まぁ、しばらく置いていた」
「亡くなられたと」
「あぁ」
「子供は、花菱様の子ですか?」
伊織は思わず口に含んでいた酒を噴き出した。
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今後も精進してまいりたいと思います。
きくが久し振りに喋りました。第二幕以来でしょうか。現実時間に置き換えると何年前のことだか。正直パッとでてきませんが、随分前の事でしょう。
きくの喋り方を改めて見直すと、想定していたものと違い、正直驚いてしまいました。
『超高速!参勤交代』のお咲さんの口調を想像しながら書いていた筈なのに、改めて読むと「御家人残九郎」の蔦吉姉さんでした。
もっと粗野だった筈なんですが、これは如何に。作者すら分からないミステリーが発生していました。




