破滅回避計画(5)
「……そこまで感心されるとは思わなかったな」
カシアンは少し可笑しそうに笑った。
「普通の女性なら、俺に髪を触られたことの方を気にするんだけど」
「花びらを取っただけでしょう?」
「まあ、そうなんだけど……」
「ーーそれより、今のやり方なら私が不貞を働いたことにもなりませんし、それでいて、周囲にはどこか親密に見えるーー。素晴らしいです!」
あれほど意味深な空気を作っておきながら、カシアン自身は嘘を一つも口にしていない。
ロイスト侯爵夫人が何を想像したとしても、それはあくまで彼女自身が出した結論だ。
これなら、ノエルの名誉を傷つけることなく、二人の関係だけを疑わせることができる。
王家の再求婚権を利用する以上、必要なのは醜聞ではない。
カシアンが、皇太子の婚約者であるノエルを本気で求めている――そう周囲へ信じ込ませることなのだ。
(これなら、いける!)
そう確信した、ーーその時だった。
「何が、素晴らしいんだ?」
背後から聞こえた声に心臓が跳ねた。
聞き慣れた声だった。
ノエルがゆっくり振り返ると、そこに、ロアンが立っていた。
いつからいたのだろうーー。
白と金を基調とした皇太子の正装を身に纏い、片手には葡萄酒のグラスを持っている。
表情は普段とほとんど変わらない。
穏やかで、落ち着いていて、十一年間見てきたロアンの顔。
その青い瞳が、カシアンとノエルの間を、一度ゆっくりと往復した。
「……殿下。いつからこちらに?」
ノエルは反射的に背筋を伸ばした。
「つい先ほどだよ」
ロアンは答えながら、カシアンへ視線を向ける。
「叔父上。王都にお戻りだったのですね」
「ああ、つい一昨日ね」
「ご連絡をいただければ、父上も喜ばれたでしょうに」
「兄上は俺の顔を見ると、すぐ仕事を押しつけてくるからな。黙って帰った方が気楽なんだよ」
「叔父上は相変わらずですね」
会話は穏やかだった。
ーー叔父と甥とはいえ年齢は二つしか違わない。
顔を並べれば兄弟と言われた方がまだ納得できるほどなのに、二人の間には確かに皇族としての距離があった。
ロアンはもう一度、ノエルを見る。
「それで?二人は、いつから親しかったのですか?」
ロアンが尋ねた。
「……いいえ。今日、初めてお話ししましたわ」
ノエルが答えると、カシアンの紫の瞳が僅かに細くなる。
「ーーそうなんだよ。初めて話したとは思えないくらい、気が合ってね」
カシアンは、楽しそうな声で答える。
ロアンの視線が、もう一度、カシアンへ移る。
「……そうですか」
それから、いつもの皇太子らしい微笑が浮かんだ。
完璧な笑顔だった。
だからこそ、その笑みが先ほどより僅かに固いことに気づいたのは、十一年も彼の隣にいたノエルくらいだったかもしれない。
「それで?叔父上の何が凄かったんだ?」
そう聞かれて、ノエルは止まった。
――『あなたとの婚約を壊すための能力が予想以上だったので感動していました』とは言えない。
「それは……」
「秘密だよ」
横からカシアンがあっさり口を挟んだ。
ノエルが思わず彼を見る。
ロアンの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……秘密?」
「ああ」
カシアンは楽しそうに笑う。
「ノエルと俺だけのね」
その直後ーー次のワルツを知らせる楽団の音が鳴り始めた。
カシアンがノエルへ顔を向ける。
そしてーー手を差し出しかけた。
「じゃあ、ノエ――」
その手が伸びきるより先に、別の手が、ノエルの前へ差し出された。
ロアンだった。
ノエルは思わず彼を見る。
「……殿下?」
「次の曲を」
あまりに自然に言われ、一瞬聞き流しそうになった。
今夜、ロアンとはすでに一曲踊っている。
夜会の最初の一曲を婚約者同士で踊るのは慣例で、その後は互いに別の貴族たちと踊り、社交の役目を果たす。
十一年間、ずっとそうしてきた。
ロアンが同じ夜会で二度、自分からノエルを誘ったことなど……一度もない。
「……私と、ですか?」
思わず確認してしまった。
ロアンの眉がほんの僅かに寄る。
「他に誰がいると言うんだ?」
そして、ちらりとカシアンを見る。
差し出しかけていた手は、すでに引かれていた。
カシアンは何も言わない。
ただ、面白いものでも見つけたように口元を緩めている。
(……何よ、その顔)
「……喜んで」
ノエルはロアンの手を取った。
すると、いつもより少し強く指を握られた。
そのままロアンは、ノエルを舞踏の輪へ連れていく。
歩き出す寸前、ノエルは一度だけ振り返った。
カシアンは、その場に立ったまま、手を振りながら二人を見送っている。
そして、ノエルと目が合うと。
楽しそうに口元だけで笑った。
***
ワルツが始まる。
ロアンの右手がノエルの腰へ添えられ、左手が彼女の手を取る。
何百回と繰り返してきた姿勢。
幼い頃からダンス教師に叩き込まれ、互いの癖まで覚えている。
目を閉じていても踊れるくらいだ。
なのに、今日は少し違った。
いつもより、顔が近い。
他人が見れば気づかないほどの差だったけれど、十一年間、同じ男と踊ってきたノエルにはわかる。
「……殿下?」
「何だ?」
「いえ」
気のせいだろうか。
そう思いながら、一度回転する。
そして、ロアンに導かれ、再び彼の腕の中へ戻る。
ーーその時。
ロアンの視線が、ノエルの肩越しに動いた。
ほんの一瞬だったが、ノエルはその視線の先に何があるのか気づいた。
ーーカシアンだ。
カシアンは別の令嬢に話しかけられていたが、それでも、紫の瞳はこちらへ向いている。
再びロアンへ目を戻すと、彼の表情は変わっていなかった。
けれど、次のステップで腰へ添えられている手の力が、少しだけ強くなった。
「……殿下」
「何だ?」
「なんだか……いつもより少し、近くありませんか?」
問いかけると、ロアンは初めて自分たちの距離に気づいたように、僅かに目を見開いた。
「……そうだったか?」
「ええ」
「……すまない」
そう言いながらも、離れない。
謝ったにもかかわらず、手の位置も距離も変わらなかった。
そのまま踊っていると、ロアンが不意に口を開いた。
「叔父上とは、何を話していたんだ?」
ノエルの心臓が跳ねる。
「……先ほども申し上げた通り、少しお話を」
「随分長かったんじゃないか?」
「……そうでしょうか?」
「ああ」
そこで会話が止まる。
ロアンは、今までノエルが誰と何を話したかなど聞いたことがなかった。
どの令息と踊ろうが、誰と話そうが、気にする素振りさえ見せなかった。
「珍しいですね」
「何が?」
「殿下が、そんなことをお尋ねになるなんて」
「……叔父上だからだ」
「カシアン様だから?」
名前を口にした瞬間だった。
ロアンの手が止まった。
「……もう名前で呼んでいるのか?」
「先ほど、堅苦しいのは嫌いだから、名前で呼ぶようにーーと言われましたので」
「そうか」
(……まさか)
そこまで考えて、ノエルは否定する。
いやーーそんなはずはない。
ロアンはセレナと出会い、彼女を愛するーーそれが『白き聖女の王冠』の物語なのだから。
楽曲が終わり、周囲の男女が互いに礼をする。
ノエルもロアンから離れようとした。
ところが、手が離れない。
「……殿下?」
ロアンはノエルの手を握ったまま、広間の向こうを見ていた。
ノエルもそちらを見る。
二人の視線の先には、カシアンがいる。
そして、カシアンと視線が交わる。
その瞬間ーーロアンがようやくノエルの手を離した。
「……次の曲は?」
「え?」
「誰かと約束しているのか」
「いえ。今のところは」
「なら……しばらく、私のそばにいてくれ」
ノエルは目を瞬いた。
ノエルが答えるより先に、ロアンは彼女の腰へそっと手を添えた。
そしてそのまま、カシアンとは反対の方向へ、ノエルを連れて歩き始めた。
ノエルは何も言えず、隣を歩いた。




