破滅回避計画(4)
握られた手に力が加わる。
そこでノエルは手を離そうとしたが、ビョルンは離さなかった。
「……公爵様?」
「何?」
「契約は成立しましたよね?」
「そうだね」
「では、手をーー」
「うん?」
「手を離してくださいませ」
ビョルンは、まるで不思議なことを言われたように首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって……」
「もう始まってるんでしょ?」
「……何がです?」
その瞬間ーービョルンは繋いだ手をゆっくり持ち上げ、ノエルが制止するより先に、手袋越しの指先へ唇を落とす。
ごくありふれた貴族の挨拶だったが、視線だけは、指先ではなくノエルの目へ向けられていた。
「誘惑さ」
低い声が落ちる。
ノエルは目を瞬いた。
「さてーーでは、そろそろ戻ろうか」
ビョルンは、ノエルからそっと手を離して言った。
「広間へですか?」
「うん」
「何か始めるのですか?」
「君が急いでるみたいだからね」
カシアンはイタズラに微笑む。
「……一年しかありませんから」
ノエルがボソッと呟く。
「ん?一年?」
しまった。
カシアンがこちらを見る。
「一年って?」
「……婚約を解消する目標期間です」
「ずいぶん具体的なんだね」
「……目標は具体的である方が達成しやすいでしょう?」
「それもそうか」
うまく誤魔化せたようだ。
ノエルは内心で安堵しながら、カシアンとともに大広間へ戻った。
***
二人が姿を現した瞬間ーー広間の空気が、変わったようにノエルは感じた。
令嬢たちが扇の影からこちらを見ている。
若い男たちも、会話を続けながら視線だけを寄越している。
ーー当然だ。
皇太子の婚約者と、《大いなる誘惑者》が二人で人目の少ない回廊へ入り、時間を置いて戻ってきたのだから。
それだけで充分、話題になる。
ノエルは前を向いたまま小声で言った。
「……見られていますね」
「そうだね」
すると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「君、本当に婚約者との仲を壊したいんだな」
「そのために、公爵様にお願いしたのですもの」
「……あのさ、その公爵様っての、やめない?ーー名前で呼んでよ。じゃなきゃ、不自然でしょ?」
「……それもそうですね。……では……、カシアン様」
「うん。上出来だよ、ノエル」
そう言って、カシアンは微笑んだ。
(さすがね……)
ノエルは咳払いした。
ーーちょうどその時。
「カシアン!」
明るい声とともに、一人の女性が近づいてきた。
二十代半ばほどの美しい女性だった。
栗色の髪を優雅に結い、深紅のドレスを纏っている。
(彼女は確か、ロイスト侯爵夫人ね)
彼女はノエルを見るより先に、当然のようにカシアンへ笑いかけた。
「いつ王都へ戻ったの? 知らせてくださればよかったのに」
「うーん、三日前かな」
「三日も前に?ひどい方ね」
「ごめんね。少し忙しかったんだ」
カシアンは柔らかく笑った。
「知らせたら会いに来てくれた?」
「もちろんよ!」
「それなら、知らせればよかったな」
ただ、それだけなのに、夫人の顔が明らかに嬉しそうに綻ぶ。
ノエルは横で観察する。
(……すごいわね)
夫人は満足そうに笑っていたが、やがてノエルの存在に気づいた。
本当に、カシアンしか見えていなかったようだ。
「あら……アシュベリー伯爵令嬢」
「ごきげんよう、ロイスト侯爵夫人」
「……お二人、ご一緒でしたの?」
(ーー来た!)
ノエルは内心で身構える。
どう答えるべきか。
「ええ、少し――」
ノエルが言いかけた時だった。
「ーー俺が誘ったんだ」
カシアンが先に答えた。
「思っていたより話が合ってね」
夫人の表情が歪む。
「まあ……」
それだけ言って、婦人はノエルを見る。
ノエルは、にっこり笑って見せたが、心の中では純粋にカシアンに感心していた。
一言で完全に空気を変えた。
これが《大いなる誘惑者》か。
すると、カシアンが急に、ノエルの耳元へ手を伸ばした。
「……?」
ノエルの髪へ指が触れる。
そして、何かを摘まんだ。
それは、小さな白い花弁だった。
先ほど回廊にいた時、風で髪へついたらしい。
「ついていたよ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ノエルは気づいた。
たとえ理由が花弁だったとしても、断りもなく令嬢の髪に触れるーーその行為がどれほど親密さを表しているか。
その距離感は、決してただの知人のものではないーーと、誰が見ても思うだろう。
「……では、お邪魔をしてしまったようですから……私はそろそろ失礼しますわね」
夫人が引き攣った顔で微笑む。
「そんな――」
ノエルが否定しようとすると。
カシアンは、まるで何も言わなくていいーーとでも言うように、微笑んだ。
夫人は、何かを確信したように去っていく。
「……公爵様」
「何?」
「あなたは……本当に凄いですね!」
ノエルの目は輝いていた。




