破滅回避計画(3)
広間の音楽が少し遠くなる。
外へ開かれた窓から、冷えた夜風が入り込んでいた。
ノエルは一度だけ息を整える。
ここまで来たらーー言うしかない。
「それで?俺に話って、何かな?」
「……公爵様は、《王家の再求婚権》をご存じですか?」
「もちろん、知っているさ。にしても、ずいぶん古いものを持ち出すんだな」
「では、話が早いですね」
紫の瞳が、ノエルをゆっくり観察する。
「公爵様」
「うん?」
「私に、正式に求婚していただけませんか?」
《大いなる誘惑者》と呼ばれる男が、はっきりと言葉を失った。
ーーやがてビョルンは、確認するようにゆっくり尋ねた。
「……俺が?君に?」
「はい」
「……皇太子の婚約者である君に?」
「何度確認なさるのです?」
「いや……」
ビョルンは口元へ手を当てた。
笑いを堪えているらしい。
「ごめん、ごめん。予想より面白い話だったからさ」
「私は真剣なのです!」
「それは見ればわかるよ。だから余計に面白いじゃないか」
「お遊びではないのですよ!」
「わかってるって」
しばらく笑いを堪えていたようだが、堪えてビョルンが話し出す。
「つまりーー君は、再求婚権を発動させて、殿下との婚約を再審議に持ち込みたい。ってことで合ってるかな?」
「その通りです」
「どうして?」
「……それは、お話しできません」
ビョルンはすぐには何も言わなかった。
長い指でグラスの縁をなぞりながら、ノエルの顔を見ている。
「殿下が嫌いになった?」
「……いいえ」
「他に好きな男ができた?」
「……いいえ」
「もしかして、俺と結婚したい?」
「まったく!!」
即答すると、ビョルンが目を見開いてノエルを見つめる。
「……そこは少しくらい迷ってくれてもいいんじゃない?」
「大切なところなので」
「そうなの?」
「ええ。私は公爵様と結婚したいわけでは断じてありません」
「なのに求婚してほしい……と」
「はい」
「随分都合がいい話だな」
「……ええ。承知しております」
ノエルは怯まず続けた。
「殿下との婚約が解消された後は、公爵様から求婚を取り下げてください。そうすれば、私は誰とも結婚せずに済みますし、公爵様も私と結婚せずに済みますから」
ビョルンはしばらく黙ったあと、低く笑った。
「なるほど」
何かが腑に落ちたような声音だった。
「俺は、君が結婚しないための踏み台というわけか」
「……言い方を選んでいただければ」
「当て馬?」
「悪化しましたね……」
「じゃあ何?」
ノエルは少し考える。
「協力者ーー、でしょうか」
「綺麗にまとめたな」
「事実ですもの」
「君、本当に俺と結婚する気はないんだ?」
「ありません」
「少しも?」
「ええ。微塵もございませんので、ご安心くださいませ」
「俺が相手なのに?」
「ええ。公爵様だからこそ、絶対にありません。アシュベリー伯爵家の家名にかけてもいいです」
ビョルンが笑った。
今度は、社交界で見せていた整った微笑ではなかった。
心から可笑しそうに、少し肩を揺らして笑っている。
「ーーいや、本当に面白いな、君は」
「私は一度も冗談を言っておりませんが」
「そこが面白いんだよ」
失礼な男だけれど、ここで腹を立てて帰るわけにはいかない。
「それで、引き受けていただけますか?」
「まだ話は終わってないだろ?」
ビョルンは笑みを残したまま、鋭く問い返した。
「形式だけの求婚を一度したところで、再求婚権が成立すると思ってる?」
「……いえ、思っていません」
やはり、そこを突いてきた。
ノエルも同じことを考えていた。
皇太子の婚約へ横槍を入れるのだ。
気まぐれで王弟が一度求婚した程度では、王家が「本気ではない」と一蹴して終わる可能性が高い。
ビョルンが続ける。
「少なくとも陛下と議会には、俺が本気で君を欲しがっていると思わせなきゃならない。そうじゃなければ再審議へは持ち込めないと思う」
「……はい」
「それだけじゃないよ」
彼は少し身を屈めた。
紫の瞳が近づく。
「ロアンにも信じさせる必要がある」
「……ええ」
「つまりーー」
そこでビョルンは、ひどく楽しそうに笑った。
「俺が君に惚れているところを、国中に見せなきゃならないわけだ」
ノエルは一瞬だけ黙った。
改めて本人の口から言われると、随分と途方もない計画に聞こえる。
それでもーーほかに道はない。
「……お願いできますか?」
「うー。ただし、俺にも得が欲しいな」
「……それもそうですよね。もちろんです。私に支払えるものであれば、なんでも」
「うーん、そうだな……」
「金銭でしょうか?」
「君よりも持っているからねぇ」
「宝石は?」
「俺は令嬢たちと違って、宝石には興味がないしなぁ」
「……では、何をお望みでしょうか?」
カシアンは少し考えるようにノエルを見る。
「そうだな……」
何を言われるのか、ノエルは身構えた。
「今決めなくてもいい?」
「はい?」
「貸しにしておこう」
「貸し……ですか?」
「そう。いつか俺が君に頼み事をした時、一つだけ聞いてもらう。それでどうかな?」
「……犯罪に関わることはお断りします」
「構わないよ」
「……人の命に関わることも」
「ああ、もちろんさ」
「……わたくしの実家を破滅させるようなお願いも駄目です」
「ずいぶんと警戒されてるな」
「当然です」
「君、俺を何だと思ってるの?」
原作で私を破滅させる男ーーとは、さすがに言えない。
「……大いなる誘惑者様?」
「あはは。それなら間違ってないな。その通り名は、割と気に入ってるんだ」
カシアンが笑った。
「いいよ。その条件で。決まりだ」
「契約成立ですね」
「ああ」
ノエルはまっすぐ彼を見た。
この男と話すまでの迷いは、すでに消え去っていた。
「では、公爵様。改めましてーー私を誘惑してくださいませんか?」
「よし、承った!」
カシアンが手を差し出す。
ノエルは一瞬だけ迷ったが、その手を取った。




