破滅回避計画(2)
高い天井から幾つもの玻璃の燭台が吊り下がり、磨き上げられた大理石の床へ黄金色の光を落としている。
楽団の奏でるワルツに合わせ、色鮮やかなドレスが花びらのように舞い、広間の至るところで笑い声とグラスの触れ合う音が響いていた。
普段のノエルならば、この景色を美しいと思っただろう。
七歳でロアンの婚約者となって以来、王宮は彼女にとって特別な場所だった。
いずれ住む場所であり、いつか自分が女主人になる場所。
その日が来ても恥じることのないようにと、彼女は十一年間、礼儀も語学も政治も外交も、求められたものを一つ残らず身につけてきた。
ーーけれど、今日に限っては違った。
一度、自分がこの物語の中で処刑されることを知ってしまえば、黄金の装飾も、白亜の柱も、どこか不吉に見えてくる。
昨日まで憧れていた場所が、今日は巨大な処刑場へ続く控室にさえ見えてくる。
「ノエル」
名前を呼ばれ、ノエルは我に返った。
隣に立っていたロアンが、怪訝そうにこちらを見ている。
柔らかな金髪に、澄んだ青い瞳。
すらりとした長身に、白を基調とした正装。
前世で『白き聖女の王冠』を読んでいた頃には、物語の正統派ヒーローとして、とても魅力的な男だと思っていた。
そして、この身体の持ち主――いや、昨日までの自分は、もっとずっと彼を特別な人間として見ていた。
「どうした?先ほどからぼんやりしているが」
「少し考え事をしていただけですよ」
「珍しいな。夜会の最中に君が上の空になるなんて」
「十八歳になりましたから。物思いに耽る年頃なのかもしれません」
冗談めかして言うと、ロアンは小さく笑った。
「君がそんなことを言うとは思わなかったな」
「私にだって、色々考えることがあるんですよ?」
「そうなのか?それは失礼したな」
その返事に、ノエルはわずかに目を伏せた。
ロアンは穏やかに笑いーーそれからノエルの姿を一瞥して、「今日のドレス、よく似合っている」と言った。
十一年間、何度も繰り返してきたやり取りだった。
けれど、十一年も婚約しているのにーー、二人はお互いの人生に必要な「役割」ばかりを見ていて、お互いのことについてはほとんど知らないのかもしれないな、とノエルは思った。
「殿下、少しご挨拶に回ってまいります」
「一人で行くのか?」
「ええ。そろそろ一人で挨拶回りくらいできなくては、殿下の妻にはなれませんもの」
口にしてから、胸の中で苦笑する。
その妻にならないために、これから別の男へ会いに行くのだから、我ながらひどい話だ。
「そうか。無理はするなよ」
ロアンはいつものように穏やかに微笑んだ。
ノエルは一礼し、その場を離れた。
***
今夜の目的は一つ。
ーーカシアン・ヴァレンティーノ。
原作で《大いなる誘惑者》と呼ばれていた男。
ノエルは広間を見渡したが、探し始めてすぐ、それが必要のない行為だと気づいた。
人は、美しいものを見ると目を奪われる。
けれど、美しいだけの人間なら社交界にはいくらでもいる。
血筋と財力を何代にもわたって掛け合わせ、最高の衣装と宝石で磨き上げられた貴族たちの世界だ。
鼻筋の通った男も、絵画から抜け出してきたような令嬢も、王宮の夜会へ来れば珍しくもない。
けれど、人の視線が自然と一箇所へ集まっている。
広間の中央から少し外れた場所で、数人の男女に囲まれ、一人の男が立っていた。
令嬢だけでなく、令息たちも彼の元に集まっており、その中心でカシアンだけがひどく退屈そうに葡萄酒のグラスを傾けている。
彼自身は大声で笑っているわけでもなければ、身振り手振りを交えて話しているわけでもない。
むしろほとんど聞き役に徹しているように見える。
なのに、彼の周りにいる者たちは、誰もが少し前のめりになって彼の言葉を待っていた。
(あれが……《大いなる誘惑者》ね)
確かに、美しい。
ロアンとは違う種類の美貌だった。
ロアンが王宮の肖像画に描かれるような端正さなら、カシアンには整いすぎていて、どこか人間らしくない儚さがあった。
彼は、まさに、オム・ファタールのようだった。
(……やっぱり、やめようかしら)
婚約破棄の方法なら、他にも探せばあるかもしれない。
こんな男を利用しようなど、毒蛇を首に巻いて「噛まないでね」と頼むようなものではないか。
ノエルは静かに一歩後ろへ下がった。
ーーその時。
カシアンと目が合った。
逃げようと思ったが、目が合った途端に逃げる方が不自然だ。
仕方なく、ノエルは社交用の微笑を浮かべた。
ノエルは少し迷った末、観念して歩き出した。
近づくにつれ、周囲にいた者たちが自然と場所を空けていく。
「ごきげんよう、ヴァレンティーノ公爵様」
「いい夜だね、アシュベリー嬢」
想像していたより、声は低かった。
甘ったるいわけではないのに、不思議と耳へ残る声音だった。
「初めまして、でよかったかな?」
「ええ。正式にご挨拶するのは初めてですね」
「そうだよね。随分熱心に俺を見ていたから、どこかで恨みでも買ったのかと思ったよ」
「……お気づきでしたか」
「あれだけ見ておいて、気づかないと思った?」
ビョルンは悪戯っぽく目を細めた。
「不快にさせたのなら、失礼いたしました」
「不快だなんて。綺麗な女性に見られるのは嫌いじゃないよ」
「……どなたにでも、そのようなことをおっしゃるのでしょう?」
ノエルが尋ねると、ビョルンは少し考えるような顔をした。
「君はどう思う?」
質問を質問で返された。
「女性の扱いに慣れていらっしゃるのだと思いました」
「そうなのかい?」
「ええ」
「なら、そういうことにしておこうか」
なるほど。
数言交わしただけで、《大いなる誘惑者》と呼ばれる理由の一端がわかる気がした。
そして、だからこそーーこの男のペースには絶対に呑まれてはいけない。
ノエルがそう心の中で戒めていると、ビョルンがこちらを覗き込んだ。
(……何なの、この男)
噂通りなのか。
それとも原作以上なのか。
まだ数言しか交わしていないのに、妙にこちらばかりが試されている気がする。
「それで?」
「……何でしょう?」
「俺に用があるんじゃないの?」
「どうしてそう思われるのです?」
「用もないのに、皇太子の婚約者が俺をあれだけ見ていたら、そっちの方が問題だろ?」
正論だった。
ノエルは小さく息を吐く。
「公爵様と、少しお話ししたいことがございます」
「ここでは話せないことかな?」
ノエルは周囲を見た。
人はそれなりに離れているものの、決して会話を聞かれない距離ではない。
何より、これからする話を誰かに聞かれれば、計画そのものが始まる前に終わってしまう。
「できれば、もう少し静かなところで……」
ビョルンが片眉を上げた。
「……えっとーーそれは、俺が考えている意味で合っているのかな?」
「違います!」
間髪入れずに否定すると、ビョルンが目を瞬いた。
「まだ何も言ってないけど……」
「失礼しました。碌でもないことを考えていらっしゃるのかと思いまして」
数秒の沈黙のあと、ビョルンが堪えきれないように笑った。
「君、面白いな」
「光栄です。それで、あちらの回廊なら人目もございますし、会話までは聞こえないと思うのですが」
「君は慎重だな」
「相手が公爵様ですから」
「ーーああ。それなら仕方ない」
二人は広間を抜け、庭園へ面した回廊へ移った。




