破滅回避計画(1)
「いやあああああああっ!!」
ノエルは、自分の叫び声で飛び起きた。
息が苦しい。
心臓が激しく脈打っている。
「お嬢様!?」
扉が勢いよく開いた。
侍女が駆け込んでくる。
「どうなさいました!?」
「ーー首!」
「はい!?」
「私の首は!?」
「……首?」
ノエルは震える手で、自分の首を触った。
ついている。
左右に回してみる。
どうやら正常である。
「よかった……」
「お、お嬢様?」
侍女が完全に困惑している。
けれど今は構っていられなかった。
アレクシアは寝台から降りると、鏡の前へ走った。
鏡の中。
そこには一人の美しい少女がいた。
腰まで届く銀色の髪。
紫水晶のような瞳。
雪のように白い肌。
アシュベリー公爵家の一人娘。
この国の皇太子、ロアン・オルテンシアの婚約者ーーノエル・アシュベリー。
間違いない、私だ。
いや、正確にはーー。
***
十八歳の誕生日に贈られたものの中で、いちばん高価だったのは南方産の青い宝石だった。
いちばん美しかったのは、王宮から届いた百八本の白薔薇。
そして。
いちばん役に立ったのは、
自分が三か月後に人を殺そうとして、処刑されるという記憶だった。
改めて考えても、誕生日プレゼントとしては最悪である。
だが知らないまま死ぬよりは、百倍ましだ。
鏡の中の自分を見つめながら、ノエルは頭の中を整理する。
ここは、前世の私が高校時代に読んでいた、王道恋愛ファンタジー小説ーー『白き聖女の王冠』の中だということ。
そして、この小説の大まかなあらすじはこうだ。
平民として育った少女セレナが、神より祝福を授けられた聖女であることを知らされ、王都へ召し上げられる。
そこで出会った皇太子ロアンと惹かれ合い、さまざまな試練を乗り越え、最後には国中から祝福されて結ばれるという、王道の恋愛物語。
そしてーー当然のように、二人の恋を邪魔する女がいる。
ノエル・アシュベリー。
名門伯爵家の令嬢で、皇太子ロアンの婚約者。
類い稀なる美貌を持ちながら、高慢で嫉妬深く、聖女セレナを目の敵にする悪役令嬢。
物語の中盤ーー、ついにロアンの心が完全にセレナへ傾いたことで、ノエルは嫉妬に狂い、セレナへ嫌がらせを繰り返していた。
そして、祝宴の席で、セレナの杯へ毒を入れたのだった。
未遂に終わったものの罪は明らかとなり、皇太子との婚約は破棄。
伯爵家からも見放され、最期はーー斬首刑。
「大丈夫よ、ノエル」
鏡の中の自分へ言い聞かせる。
今は、『白き聖女の王冠』の物語が始まる三ヶ月くらい前のはず。
セレナが王都へやって来るのが、一ヶ月後。
王太子と出会うのもその頃。
そして、セレナ毒殺事件は約一年後。
ーーつまり。
「まだ間に合うわ」
ノエルは顔を上げた。
一年もある。
処刑台へ向かって敷かれたレールから降りるには十分だ。
「ロアン殿下……」
名前を口にすると、胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
ノエルは眉を寄せる。
前世を思い出したからといって、この十八年間が消えたわけではない。
七歳で婚約してから十一年ーーノエルはずっと、ロアンの妻になるのだと思って生きてきた。
彼のために語学を学び、彼の隣へ立つために礼儀を身につけ、いつか彼を支える王妃になるため、少女時代のほとんどを費やした。
ロアンを嫌いになったわけではない。
それでもーー死ぬのは嫌だ。
ーー恋と命。
比較するまでもない。
ところがーー、現在のノエルは、すでにロアンと正式に婚約している。
しかも、本人同士の恋愛感情などほとんど考慮されていない、由緒正しい政略結婚だ。
それぞれに連なる貴族たちの思惑や利害まで、二人の婚約によって結びついている。
七歳の少女と九歳の少年が交わした約束は、十一年という歳月の中で、とうに二人だけのものではなくなっていた。
「……詰んでない?」
項垂れながらぽつりと呟くと、侍女が心配そうにこちらを見る。
「……お嬢様、本当に大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
全然大丈夫ではない。
つい先ほどまで存在しなかったはずの前世の記憶が、十八年分の人生へ無理やり流れ込んできたのだ。
平然としていられる方がおかしい。
ーーとはいえ、前世の記憶が戻った以上、座して処刑を待つつもりはなかった。
皇太子が聖女と恋をするなら、どうぞご自由に。
むしろ歓迎する。
花束だって送るし、二人が結婚する暁には誰より盛大な拍手をしてやる。
ーーだから、その前に。
「婚約をどうにかしなくちゃ……」
侍女の手から花瓶が落ちた。
ガシャン、と派手な音が室内へ響く。
「お嬢様!?」
「あ……」
「な、何を仰っているのですか!?」
「……あ、ごめん。なんでもないから気にしないで」
ノエルは、黙って腕を組んだ。
普通に婚約を解消してほしいと申し出たところで、父も王家も首を縦には振らないだろう。
ロアン本人がノエルを嫌いになったところで、事情はそう簡単ではない。
これは恋人同士の約束ではないのだ。
互いに愛がなくなりました、それではさようなら――で済むなら苦労はしない。
(一体、どうすれば……)
(不貞?)
ーー却下だ。
下手をすれば処刑を回避しても、社交界的に死亡する。
(国外逃亡?)
ーーいや、却下。
皇太子の婚約者が失踪したとなれば、国家規模で捜索されかねない。
それに、逃げ切れる気がしない。
(修道院に入る?)
ーーいやいや、却下。
そもそも政略婚から逃げるために入信を認めてもらえる保証などないし、仮に成功したとしても、一生修道院の壁の中で暮らす人生は、ノエルが望む自由とはほど遠い。
「……何かないの?」
誰にともなく呟きながら、ノエルはこれまで叩き込まれてきた知識を頭の中でひっくり返した。
ーー王家の婚姻。
ーー貴族法。
ーー継承法。
ーー外交条約。
皇太子妃になるため、幼い頃から嫌というほど覚えさせられた。
まさか、王妃になるために学んだ知識を、王妃にならないために使う日が来るとは思わなかったけれどーー。
「……待って」
ふと、一つの制度が脳裏をよぎった。
昔、王宮史の講義で聞いたことがある。
今ではほとんど使われることのない、古い王家の慣習ーー。
(王家の……再求婚権!)
ノエルはゆっくり顔を上げた。
王族との婚約は、本来、個人の都合で簡単に解消できるものではない。
けれど、正式な婚姻が成立する前に、別の王族から求婚を受けた場合だけは事情が変わる。
かつて、一人の令嬢を巡って二人の王子が争い、王家が二つに割れかけたことがあった。
その再発を防ぐために作られたのがーー《王家の再求婚権》。
別の王族から正式な求婚がなされた場合、先に結ばれていた婚約はいったん再審議へ回される。
その上で、当事者たちの意思を改めて確認するーーというものだ。
だがーーすでに王族との婚約が決まった令嬢へ、さらに別の王族が求婚するなど、普通なら王家の内紛を招きかねないので、これまで使われたことはなかったはず……。
ましてや、ノエルの場合、相手は皇太子である。
そんな危険を冒してまでノエルへ求婚する男など――そこまで考えて、ノエルは止まった。
(……あれ?)
もう一度、制度の内容を最初から思い出そうと、ノエルは目を閉じる。
今すぐロアンとの婚約を完全に破棄する必要はない。
婚約を再審議へ持ち込めればいいのだ。
あと一か月ほどで、聖女セレナが王都へやって来てーーロアンと出会い、二人は惹かれ合う。
原作通りなら、ロアンの心はセレナへ傾いていくはずだ。
その時まで、今の婚約を、「絶対に履行しなければならないもの」ではなくしておけばいいのでは?
ロアン自身がセレナを選びたいと思った時、婚約を解消できる余地さえ作っておけば――。
「これは……いける!!」
「お嬢様?」
「いけるわ!」
思わず立ち上がった。
突然元気になった主人を前に、侍女が露骨に不安そうな顔をしている。
しかし、ノエルは構っていられなかった。
もちろん、問題は残っている。
むしろ、最大の問題が残っている。
《王家の再求婚権》を使うには、当然ながら――別の王族から求婚されなければならない。
「……誰かいないかしら」
「何がでしょう?」
「なんでもないわ」
ノエルは再び腰を下ろした。
未婚の王族……。
ロアンの婚約者へ求婚しても、簡単には潰されないだけの立場を持つ人物で……できれば王家から多少睨まれた程度では動じない人間がいい。
けれど、そんな都合のいい男がいるはず――。
「……」
一人、いた。
その男を思い出した瞬間ーー、ノエルはゆっくり首を横へ振った。
「いやいやいや……」
「お嬢様?」
「駄目。あれは駄目よ!」
「何がでございますか?」
「何でもないの」
(よし、今のは忘れよう)
絶対に、ほかの方法を探すべきだ。
なぜなら、浮かんだ男の名は――ビョルン・ファルシオン。
現皇帝の、年の離れた異母弟にして、公爵位を持ち、皇太子ロアンにとっては、わずか二歳しか違わない叔父にあたる男。
ーーそして。
『白き聖女の王冠』において、もっとも得体の知れない人物の一人だった。
金髪に、神秘的な紫の瞳。
男も女も振り返るほどの絶世の美貌を持ち、社交界では彼を知らない者はいない。
けれどーー、本当に恐ろしいのは、その容姿ではなかった。
ビョルンは、他人の心へ入り込むのが異常なほど上手いのだ。
ーー心のうちに隠している劣等感。
ーー押し込めた不満。
ーー自分でも認めたくない醜い欲望。
それをまるで最初から知っていたかのように見つけ出し、ほんの少し背中を押す。
すると人々は、最後には自分の意思で破滅へ歩いていった。
原作のノエルも、そうだった。
ロアンの心が聖女へ傾き、嫉妬と不安に追い詰められていた彼女へ、ビョルンは優しく囁いた。
『殿下が聖女を愛しているとして、それが何だというんだ?君は彼の婚約者だ。君には、殿下を取り戻す権利があるのさ』
そうして原作のノエルは、少しずつ引き返せないところまで進んでいった。
結局、最後まで、ビョルン自身が何を目的としていたのかは明かされなかった。
だからこそ、関わってはいけない。
危険すぎる。
ノエルはそう結論づけた。
いくら条件に合っているからといって、自分を破滅へ導いた男へ自ら近づくなど正気ではない。
それにーー、そもそもビョルンが協力してくれる理由がない。
「却下ね……」
「先ほどから何を却下なさっているのです?」
「人生の選択肢よ」
侍女はますます心配そうな顔をした。
ノエルはそれを無視し、別の王族を思い浮かべようとする。
ーー皇帝の従兄弟。
ーー遠縁の公子。
ーー国外の王族では制度上どうなるのだったか……。
……駄目だ。
誰を考えても、ビョルンほど条件に合う人物はいない。
そして何より、ノエルには、もう一つ思いついてしまったことがあった。
ビョルンがただ形式的に求婚したところで、《王家の再求婚権》が認められるとは限らない。
皇太子との婚約を揺るがすほどの求婚なのだ。
王家にも、貴族たちにも、そしてロアン本人にも――ビョルンが本気でノエルを欲しがっている、と信じさせる必要がある。
その点において、ビョルン・ファルシオン以上に適した男が、この国にいるだろうか。
ロアンとの婚約が解消された後は、ビョルンにも求婚を取り下げてもらう。
その時点で完全に自由。
誰とも結婚せず、領地へ帰るーーそれが理想だ。
ーーだが。
相手が、あの《大いなる誘惑者》である。
ノエルは頭を抱えた。
「……やっぱり……、いや、うーん……。絶対、やめた方がいいわね」
「では、おやめになってくださいませ」
事情を知らない侍女から、至極もっともな返事が飛んでくる。
「……そうよね」
「はい」
「……うん、そうするわ!」
「それがよろしいかと」
うん、忘れよう。
ビョルンなど存在しなかった。
別の方法を考えればいい。
ーーその時。
侍女がふと思い出したように声を上げた。
「ーーそういえば、お嬢様」
「なに?」
「本日の王宮での夜会ですが、珍しい方がお見えになるそうですよ」
なんだか、とてつもなく嫌な予感がした。
「……誰?」
「ファルシオン公爵です」
ノエルはゆっくり顔を上げた。
「……ビョルン・ファルシオン?」
「はい。しばらく領地にいらしたそうですが、昨日王都へお戻りになったとかで」
侍女は少し楽しそうに続ける。
「皆様、きっと大騒ぎになりますね。あの《大いなる誘惑者》がいらっしゃるんですもの」
ノエルは何も答えなかった。
ーー偶然だ。
きっとこれは偶然だ。
そうに決まっている。
十八歳の誕生日に前世の記憶を取り戻し、その日のうちに婚約を逃れる唯一の方法を思い出し、その方法にもっとも都合のいい男がーーよりによって、夜会へ現れる?
(……神様。これは、行けということでしょうか?)
ノエルはしばらく天井を見上げた。




