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大いなる誘惑者  作者: 桔梗


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破滅回避計画(6)

ーー翌朝。


「――お嬢様、大変です!」


勢いよく寝室へ飛び込んできた侍女の声で、ノエルは薄く目を開けた。

天蓋の向こうから差し込む朝の光が眩しい。

昨夜、王宮から戻ったのは深夜近くだった。重たい夜会服を脱ぎ、髪を解き、湯浴みを済ませて、ようやく寝台へ潜り込んだ頃には、とっくに日付が変わっていた。

当然、眠い。


「……朝から元気ね」


「そんなことを言っている場合ではありません!」


「首でも飛ぶの?」


半分眠った頭で答えると、侍女が言葉を失った。


「……朝から縁起でもないことを仰らないでくださいませ」


ノエルにとっては、かなり現実的な話なのだがーー。

そう思いながら、ノエルはゆっくり身を起こす。


「それで、何が大変なの?」


「昨夜のことでございます!」


その一言で、眠気が少し引いた。

ノエルが目を覚ました時には、昨夜の出来事はすでに彼女の知らないところで、かなり都合よく脚色されていた。


「――お嬢様、本当にファルシオン公爵閣下と回廊で抱き合っていらしたのですか!?」


寝起き一番に投げつけられた質問が、それだった。

ノエルは寝台の上でしばらく瞬きをした。


「……誰と誰が?」


「お嬢様と公爵様です!」


「抱き合ってないわよ」


「……では、口づけを!?」


「してないわ」


「名前でも呼び合っていたそうですが」


「それは……」


言葉に詰まった。

それは、事実だ。

侍女の目が大きくなる。


「やっぱり!」


「違う!」


朝から声を張り上げる羽目になった。

ノエルは額を押さえる。

どこをどう通れば「回廊で抱き合っていた」に変わるのだろう。

社交界という場所では、噂に羽どころか翼まで生えるらしい。


「……恐ろしいわね」


「何がです?」


「人間の想像力よ」


侍女は意味がわからないという顔をした。

ノエルは深く息を吐き、寝台から降りる。


一つ気になることがあった。


(カシアン様、今日はどうするつもりなのかしら)


昨夜、契約を交わしたけれど、具体的な手順まではほとんど決めていない。

カシアンなら勝手に何か始めそうではあるが、それにしても、こちらにも心の準備というものが――。


「お嬢様」


今度は扉の向こうから別の侍女が入ってくる。


「旦那様が、今すぐ応接室へ来るようにと仰せです」


「……応接室?」


書斎ではなく?


「はい」


「誰か来ているの?」


侍女が妙な顔をした。

驚きと興奮と、少しの恐怖が混ざっている。


「ファルシオン公爵がお見えです」


ノエルは固まった。


「……誰ですって?」


聞き間違いであってほしい。


「カシアン・ファルシオン公爵閣下でございます」


ノエルは頭が真っ白になった。


(何をしているのよ、あの男は……!)


昨日の今日である。

求婚の芝居を始めるとは聞いた。

盛大にやってほしいとも頼みはしたがーーまさか翌朝、本人が伯爵邸へ乗り込んでくるとは聞いていない。


「……お嬢様?」


「……ちょっと待って、着替えるわ」


「はい」


***


応接室の前まで来たところで、父ーーアシュベリー伯爵の声が聞こえた。


「――冗談ではありませんぞ」


怒っている声だ。

ノエルは扉の前で立ち止まった。


「お嬢様?」


後ろの侍女が囁く。


「お入りにならないのですか?」


「……」


ノエルは覚悟を決め、扉を開いた。


「失礼いたします」


室内に入ると、正面の長椅子にカシアンがいた。

昨日と同じ男とは思えないほど、今日はきっちりと正装している。

金髪も丁寧に整えられ、紫の瞳にはいつもの気怠さがない。

そしてーー机の上には華やかな花束がおかれている。

誰へ贈るものかなど聞くまでもなかった。


(……やってくれるわね)


「座りなさい、ノエル」


低い声だった。


「はい、お父様」


父の隣へ座る。

真正面にはカシアン。

その紫の瞳が、どう見ても楽しんでいる。

あとで絶対に文句を言おう。


「さて」


父が口を開いた。


「娘も来たことです。改めて、お聞かせ願えますかな。公爵」


カシアンは気にした様子もなく、脚を組み直した。


「先ほど申し上げた通りですよ」


カシアンは一度ノエルを見た。

それから、父へ向き直る。


「ノエル嬢へ、正式に求婚したいと思っています」


ノエルは思わず咳き込みそうになった。


「ーーファルシオン公爵」


父がカシアンへ向き直った。


「失礼を承知で申し上げるが、あなたの女性関係の噂は私の耳にも入っております」


「ええ」


「否定なさらないので?」


「もちろん、事実と違う部分も多々ありますが、いちいち訂正して回るほど暇じゃないので」


「では、娘への求婚は、その類いではないと?」


「違います」


即答だった。


「俺は今まで、女性の父親へ求婚の許しを請いに来たことはありません」


父が黙り、ノエルも黙った。


ーー《大いなる誘惑者》。

数えきれないほどの浮名を流してきた男。

花を贈ったり、宝石を贈ったりーーなんてことなら、カシアンは過去に何度もしている。

同じことをしたところで、誰も本気だとは思わない。

そんな男が、初めて相手の家へ正面から求婚の許しを得にやって来た。

これ以上、「今回は違う」と周囲へ思わせる材料があるだろうか。


(……この人)


やっぱりーー恐ろしい。


「もちろん、今すぐ婚約をどうこうしろと言っているわけじゃない。彼女にはすでにロアンとの婚約がありますからね」


「当然です」


「だからこそーー《王家の再求婚権》に則って、正式に申し入れるつもりです」


父の顔色が変わった。


「……本気ですか」


「もちろん。本気ですとも」


カシアンは微笑んだ。


「それが何を意味するか……、公爵ならおわかりでしょう」


「ええ。もちろん」


「王家の内部で、対立を招く可能性もあるのですぞ……?」


「ええ」


そこで、カシアンがノエルを見る。


「それでもーーノエル嬢が欲しいのです」


ーーこれは演技。

わかっている。

ーーこれは契約。

わかっている。


昨日、自分が頼んだのだから。

盛大に誘惑してほしい、と。

だからーー今の言葉も、視線も、全部ーー芝居。

なのに、本当にそうなのではないかと思いそうになる。


「……公爵。少し、娘と二人で話をさせていただけますか」


「もちろんです」


カシアンは立ち上がる。

そして、ノエルの隣を通り過ぎる直前ーーほんの少し身を屈めた。


「あとは上手くやってね」


父には聞こえないほど小さな声。

ノエルは笑顔のまま、小声で返した。


「あとで覚えていてくださいませ」


カシアンはノエルに微笑み、部屋を出ていった。


***


ノエルは父を見た。

父もノエルを見ている。


「……ノエル。説明しなさい」


「はい」


さてーー、どこまでなら嘘にならないだろう。

ノエルが必死で頭を回転させていると、扉の外が再び騒がしくなった。


「旦那様!」


ーー執事の声だ。

父が苛立った声を返す。


「今度は何だ!」


「宮殿より使者が来ております!」


「宮殿だと?」


「はい。それが……」


扉越しでも、執事が戸惑っているのがわかった。


「皇太子殿下が、こちらへ向かっておられるそうです」


ノエルはゆっくり瞬きをした。


「入ってこい!」


父の呼び声で、執事が中へ入ってきた。


「……失礼致します」


「なぜ、殿下がこちらへ向かっているのだ?」


「それが――」


執事が一度息を呑む。


「ファルシオン公爵閣下が、当家を訪問されたことをお知りになったそうで……」


ーー沈黙が流れる。


「……なぜもう殿下のお耳に入っているんだ?」


「ファルシオン公爵は、王宮を出る際に王家の馬車をお使いになったそうで……」


ノエルは思わず目を閉じた。

絶対にわざとだ。


「……ノエル」


父の声が。

いつになく低い。


「お前、本当に……一体、何をしたんだ?」


「……」


ーーその時。

屋敷の前で、馬車が停まる音がした。

続いて、何人もの近衛騎士の声。

王家の紋章を掲げた馬車が、アシュベリー伯爵邸へ到着したのだ。


(……セレナ。お願いだから……一刻も早く、あなたの男を回収して)


ノエルは心の底から願った。

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