第20話 建国祭前夜、王太子は勝利の杯を掲げる
「我々の、真実の愛の勝利に!」
「ふふっ、エドガー様。乾杯ですわ」
建国祭の前夜。
王宮の一角にある王太子エドガーの私室では、豪奢な装飾が施されたワイングラスが重なり合う、涼やかな音が響いていた。
エドガーの腕の中には、うっとりとした表情を浮かべる男爵令嬢ミレーヌが抱かれている。
「いよいよ明日だ。建国祭の大広間、各国の使節や貴族たちが集まるあの場で、私は政略という古い因習を打ち砕く。嫉妬に狂ったクラリスの罪を暴き、お前を未来の王妃として迎え入れるのだ」
「まぁ……エドガー様、なんて心強いお言葉。でも、少し不安ですわ。公証院のあのレティシアという令嬢が、また何か邪魔をしてこないでしょうか? 私の首飾りの支払いも、まだ止められたままですし……」
ミレーヌが上目遣いで不安を口にすると、エドガーは鼻で笑って彼女の肩を抱きしめた。
「明日、あの生意気な不吉な令嬢も終わりだ。私の婚約破棄が正当であることは、すでに公証院の次長であるボルトンが、完璧な『意見書』として用意してくれている。総裁の叔父上も、これには反論できまい」
エドガーは、自らの権力と「愛」という大義名分を盲信していた。
明日の夜、自分が歴史に名を残す偉大な王太子として称賛を浴びるのだと、微塵の疑いもなく信じ切っている。
「私がすべてを握れば、監査などすぐに吹き飛ぶ。お前には国一番の宝石を与えよう」
「ええ、信じておりますわ、エドガー様」
甘く囁き合いながら、二人は勝利の美酒に酔いしれる。
自分たちの足元に広がっているのが、輝かしい未来ではなく、底なしの暗い落とし穴であることなど、露ほども知らずに。
* * *
同時刻、王立公証院の総裁執務室。
エドガーの私室とは対照的に、こちらには冷たく研ぎ澄まされた静寂が支配していた。
「……殿下、レティシア様。明日に向けた証拠書類、すべて裏付けが完了いたしました」
ノアの優秀な部下が、分厚いファイルの束を恭しくデスクに積み上げた。
レティシア・アーヴィングは、その一つ一つを冷静な目で確認していく。
「エドガー殿下とクラリス様の『婚約契約書』。及び、エドガー殿下ご本人の署名入り『条項削除申請書』」
レティシアが書類を読み上げる声には、一片の感情も混じっていない。
「条項削除時の『説明拒否記録』。ミレーヌ様への王太子費および婚約財産からの『高額贈与記録』。そして、ミレーヌ様主催の茶会を起点とする、クラリス様への『虚偽の噂の流通記録』。……完璧です」
これだけの証拠が揃えば、明日の大広間でエドガーが何を叫ぼうと、一瞬で論破できる。
「公証院が管理する契約原本の物理的な改ざんは、魔法を使っても不可能です」
ノアが、氷のような瞳でデスクの上の書類を見下ろしながら言った。
「だからこそ、ボルトンは解釈を捻じ曲げる方向に走った。『協議解除条項が削除されている以上、解除の手順に制限はない。ゆえに、王太子による自由な破棄は適法である』……という意見書を提出する腹積もりらしい」
「無茶苦茶な暴論ですね」
レティシアは小さくため息をついた。
「貴族の婚約において、一方的な口頭破棄は無効であるというのが絶対の原則です。協議解除条項は、あくまでその例外的な『出口』。例外を削ったからといって、原則が覆るわけではありません」
前世の法務部時代にも、自分たちに都合よく法律を拡大解釈して自滅する人間はいたが、公証院の次長という立場の人間がそれに加担するなど、愚かの極みである。
「ボルトンもろとも、明日の夜会で完全に沈めてやろう」
ノアの低い声には、敵に対する容赦のない冷酷さが滲み出ていた。
彼の手によって、王太子側の資金も、味方も、そして逃げ道も、すでに完全に断たれているのだ。
「明日は、激しい夜になりますね」
レティシアは、これから起こるであろう国を揺るがす大騒動を思い、少しだけ肩の力を抜いて息を吐いた。
すると、ノアが静かな足取りでレティシアの隣へと歩み寄ってきた。
「……っ、殿下?」
至近距離に立ったノアの手が、ゆっくりとレティシアの顔に伸びる。
黒革の手袋に包まれた大きな指先が、レティシアの少し乱れた横髪にそっと触れ、耳にかけられていた地味な髪飾りの位置を優しく整えた。
「で、殿下……あの……」
突然の甘い接触に、レティシアの心臓がトクン、と大きく跳ね上がった。
最近のノアの行動は、明らかに「上司としての業務上の保護」という範疇を逸脱している。
その熱を帯びた瞳で見つめられるたび、彼が自分に触れるたび、レティシアは自分が彼を単なる上司としてではなく、一人の男性として強く意識してしまっていることを、認めざるを得なかった。
「レティシア」
「は、はい……っ」
ノアは、レティシアの赤い頬を指の背でそっと撫でながら、低く、甘く囁いた。
「明日、君はただ契約の事実を説明するだけでいい」
「え……?」
「どんな暴言も、どんな理不尽な威圧も、君には一切届かせない。……君を守るのは、私の仕事だ」
その言葉は、前世で一人きりで理不尽に耐え続け、誰にも守ってもらえずに過労死したレティシアの心を、ひどく甘く、そして力強く震わせた。
「……っ」
こんな言葉をかけられて、こんな熱い瞳で見つめられて、胸が高鳴らないはずがない。
レティシアは、限界まで熱くなった頬を隠すようにうつむきながら、小さく、けれど確かな信頼を込めて頷いた。
「はい……っ。よろしく、お願いいたします」
明日は建国祭。
傲慢な王太子が自らの手で崩壊への扉を開くその舞台で、レティシアは、彼女を誰よりも愛し、守り抜く最強の盾と共に立つ。




