レノーの後悔・妻の慟哭
レノーはランドール王国へ戻る船の上で、ぼんやりと海を見ていた。
(マルクは無事に海軍に入れただろうか)
マルクの黒い髪とスモーキークォーツのような黄灰色の瞳を思い出す。かつて愛した妻と同じ色を持つ少年。
(俺の子どもも同じぐらいの年齢か)
顔も名前も、性別さえも知らないレノーの子ども。探すこともせず、今はどこにいるのかも、生きているのか死んでいるのかさえも知らない子ども。
約二十年前、レノーはリートレ王国海軍に所属する航海長として艦船に乗っていた。
ある時、レノーは同盟国であるランドール王国に寄港した際に一日休みをもらい街を歩いていた。
そして、一人の女性と出会った。
黒い髪とスモーキークォーツのような瞳のリリーア。軍港近くの飲み屋で働いていたリリーアは美しく朗らかで人気があった。
リリーアに恋をしたレノーはランドールに寄港するたびにリリーアのもとを訪れ、何度目かの対面でプロポーズをした。
二人でリートレへと渡り、小さな家を買った。
幸せだった。
しかし幸せも束の間、海軍航海長のレノーに出撃命令が出ればリリーアを置いていかなければならない。後ろ髪は引かれるが、無事生きて帰れば笑顔のリリーアがいると思えば頑張れた。
当時レノーが乗っていた艦船は輸送艦であったので普段はそれほど危険な目に遭うことはなかったが、その年の海戦はかつてないほどの激しいもので総力戦となった。
陸軍兵士を敵国まで輸送していたのだが、待ち構えていた敵艦から砲撃されたのだ。
味方の艦船も何隻か沈み、自艦も大きな損傷を受けた。相手の砲弾で帆に穴が開き航行不能となった艦を曳航して近くの港で復旧し、日数をかけてやっとの思いで帰国した。
帰宅するとリリーアが嬉しそうに出迎えてくれた。
だが、久しぶりに帰国したレノーは荒れていた。
目を閉じれば砲撃の音や艦が音を立てて崩れる音、それから渇きと飢えと仲間の死が甦る。
まだ若かったレノーにとって、苦しみの発散方法は酒と賭博だった。心配そうに見るリリーアを避けて毎日賭博場に通った。
碌でもない夫だった。だからだろう、次の出航が三年を越えて帰国した時、家にリリーアの姿はなかった。
近所に聞いて回った。すると呆れられたように言われた。
『奥さんとお子さんはどこにいるかわからないねえ」
『お子さん……?』
レノーはリリーアが妊娠していたことも子どもが生まれたことも知らなかった。
打ちひしがれたレノーは海軍を辞め、ランドール王国に渡った。リリーアが働いていた飲み屋をはじめ、心当たりを探し回った。
そして、見つけた。
ランドール王国の内陸部にある、小さな村の小さな教会の、小さな墓石の下に。
リリーアを失った喪失感で、その時のレノーの頭の中に子どものことはなかった。レノーは失意のまま海に戻って武装商船の私兵となった。
海での闘いがレノーからリリーアを奪った。けれど海でしか生きられないレノーは闘うことでリリーアを忘れようとした。
そして十数年後、リリーアと同じ色を持つマルクが同じ船に乗ってきた。そのとき、初めて見たこともない自分の子どものことを思い出した。
あまり喋らないおとなしい性格で、朗らかなリリーアとは違う。けれど世話を焼くことで罪滅ぼしになるような気がした。
リートレ王国で職を探すと言っていたマルクに海軍への紹介状を書いたのは、ほんの少し後悔している。伝手がほかになかったせいではあるが、あの凄惨な思いをさせるのは気が引ける。レノーも仲間の死体を海に蹴り落とせるようになるまではかなりの葛藤があったのだ。
「……ま、大丈夫かな」
往路の海賊相手の戦いで、マルクはよく頑張った。寝ている時は悪夢にうなされていたが、仕事中は淡々としていた。それはきっと大切な目標があるからだろう。
紹介状の宛名アンベール・ノイエは、当時提督だった父親に連れられて軍港に遊びに来ていた子どもだった。まだ小さな時から『早く士官候補生になりたい』と目をキラキラさせながら艦を見ていたが、現在は風の噂でフリゲート艦の艦長になっていると聞く。
『坊ちゃん、海軍士官になにが一番大切かご存知ですか?』
『強いこと?』
『いいえ』
『砲撃が上手いこと?』
『いいえ。一番大切なのは死なないことです。これは大切な合言葉です。死なずに戻ってくること。覚えておいてくださいね』
マルクも死線を抜け、いずれ軍功を立てて名を馳せるようになるだろう。
だから大切な合言葉を贈ろう。
自分のことなんか忘れるかもしれないが。
「死ぬなよ、マルク」
レノーの小さな呟きは、波の小さな泡に消えていった。
***
リリーアは放浪の民の娘だった。貧しさのため、とある港町に置き去りにされた。
なんとか飲み屋での仕事を見つけ、平穏な暮らしをしていた時だった。
何度か来たことがある体の大きな船乗りにプロポーズされた。にかっと笑う笑顔が眩しい人で、厳つい体にピンク色の花束を持って結婚を申し込む姿に可笑しくなって頷いていた。
その男は隣国の軍艦の航海長だったので、一緒に隣国に渡った。
幸せだった。ジプシー出身で字も読めず頭も悪いリリーアだったけれど、飲み屋で覚えた料理を作れば男は喜んでたくさん食べてくれた。
けれど、すぐに夫は仕事で海に出た。
誰も知り合いがいない生活は寂しく、ひたすら夫の帰りを待った。数日で帰ってくることもあれば数か月帰ってこないこともあった。
帰ってくれば色んなお土産を持って帰ってくれたし、十分な生活費も渡してくれた。それに、なにより大切にしてくれた。
夫は仕事のことをあまり話さなかったけれど、ひどく憔悴して帰ってきたことがあった。まるで人が変わったかのように酒に溺れ賭け事にのめり込んだ。
声をかけても無視され、酒を煽った。
そしてまた、海へと出ていった。
その二か月後、妊娠していることがわかった。
そのことに気づいた近所の人たちが親切に食べ物を持ってきてくれたり家事の手助けをしてくれるようになった。
近所にも知り合いができて嬉しかったけれど、やっぱり寂しかった。
リリーアは夫を待った。大きくなったお腹を見てもらいたくて、一緒に頑張ってほしくて。
けれど夫は帰ってこない。
リリーアは一人で赤ん坊を産んだ。
リリーアは待った。三年が経った。赤ん坊に歯が生えたり歩き始めたり。子どもの成長に喜びながらも、夫と一緒に喜びたいから待っていた。
近所の人が「レノーさん、まさか戦死したんじゃ……」と噂をしていた。
リリーアは限界だった。働いていた飲み屋がある街が無性に恋しくなった。
ランドール王国に戻ると、街はがらりと変わり飲み屋はなくなっていた。
その夜、リリーアは宿屋で熱を出した。
*
数日後、リリーアは幼い息子の手を引いて賑やかな街を歩いていた。
(こんなに大勢の人がいるのに、あたしは一人……)
あのまま夫が帰ってこない家にいた方がよかったのかな、と小さな息子を見ると、息子はリリーアを見上げてにっこりと笑う。リリーアも笑いかけた。悲しい微笑みだった。
熱がまだ引かない。頭はくらくらとして判断力を鈍らせる。
その時、教会の澄んだ鐘の音が響いた。リリーアは息子の小さな手を握って教会の前まで来た。
『ここで待っていてね』
頷く息子を残し、雑踏の中に紛れるようにその場を離れた。
そのまま辻馬車に乗り、当て所もなく遠くへ遠くへと離れた。
内陸部の小さな村で、リリーアは力尽きた。
熱があるはずなのに、体の芯から冷たくなるような感覚に襲われた。
あたしは一人じゃなかったのに、なんてことを……!
捨てられる悲しさや寂しさは自分が一番知っているのに、息子を捨ててしまった。
自分と同じように、息子を一人にしてしまった。
夫がいなくても、息子のためなら頑張れたかもしれないのに。近所の人の助けを借りて二人で生きていけたかもしれなかったのに。あと一日待てば、夫は帰ってきたかもしれないのに。
馬鹿だから、今更後悔しても遅い……。
うずくまり嗚咽を漏らして泣いていたところを保護され、小さな教会に運ばれた。
数日後、痩せ細り熱に浮かされたリリーアは、小さくうわごとを言いながら火が消えるようにこの世を去った。
『アンリ、ごめんなさい……、マルク、ごめんなさい……』




