第94話:『漆黒の至高登記 ー 01/26 09:30 執行開始』
第3部:漆黒の至高登記
一月二十六日 九時三十分
執務室の重厚な扉が、音もなく左右に割れた。
最初に踏み込んできたのは、色のない暴力──龍淵至高登記国の「黒」だった。
先頭に立つ男、マルコス・サヴァスは、翡翠の瞳を凍りつかせ、一片の埃も許さぬ漆黒の官服を纏っている。
彼の背後では、十数名の書記官たちが虚空に浮かぶ魔導キーボードを凄まじい速度で叩き、執務室内の「全事象」をリアルタイムで登記し続けていた。滝のようなタイピング音が、静まり返った室内を蹂躙する。
「……レオン・ド・ラ・ノワール。
九龍淵は、昨夜の『未定義の幸福イベント』を認めていない。
あなたの資産価値に生じた、説明不能なノイズを……再登記しに来ました」
マルコスの声は静謐だった。だが、その視線が、部屋の隅にある「不敬の極致」を捉えた瞬間、翡翠の瞳がサヴァス家特有の魔力発光を放ち、激しく明滅した。
「……ッ、……あ……、兄さん……?」
そこには、かつて「サヴァスの至宝」と謳われ、マルコスに魔導計算の気高さを教えた憧れの従兄──マルヴェイがいた。
あろうことか青茨の蔓で椅子に縛り上げられ、あられもない姿で魔導基盤を撫でていた。
「やあ、マルコス。久しぶりだね。
相変わらず、……登記(仕事)が早いじゃないか」
マルヴェイは、拘束の苦痛を楽しむように目を細めて笑った。
マルコスの脳裏に、数百年前に見た「聖域」がフラッシュバックする。
美しく、高潔で、誰も触れ得なかったマルヴェイの指先。その指先が今、下俗な「ニンニクの熱量」を解析するキーボードを叩き、あまつさえその身体は、一人の男に「所有物」として供されている。
「……なぜ……。なぜ、あなたはそんな……『不潔な救済』に堕ちたのです……!
兄さんの高潔な指先は……サヴァスの誇りは……どこへ……!」
マルコスの絶叫に近い言葉に、タイピング音がさらに激しさを増す。龍淵の台帳が「マルヴェイ・サヴァスの異常な毀損」を記録しようと荒れ狂った。
その時、レオンが静かに、そして重々しく口を開いた。
「……マルコス。……誤解しないでほしい。
……私は、彼を屈服させたのではない」
レオンは胃の激痛を、全霊の「憂いを帯びた慈愛」へと変換し、マルコスを射抜いた。
メイが背後で頷く。設定はリロードされた。
「私は彼と共に、……この世界の最底辺にある……『脂ぎった欲望(民衆の熱量)』を……サンプリングしていたのだ。
……彼は自ら望んで、……私の苦悩(不摂生)を登記するための『アンカー』となったのだよ」
「サンプリング……?
……兄さんが、……泥を……啜ったというのですか……?」
マルコスの瞳が、理解拒否のまま激しく揺れる。
憧れ、絶望、そして目の前の「美しく縛られた兄」への隠しきれない執着。
「……そうだ。これは、……高潔な犠牲だ」
レオンはそう言い放ち、リンゴジュースの瓶を「聖杯」のように掲げた。
実際には、胃から上がってくる「昨夜の残滓」を飲み下すための必死のポーズだったが、マルコスの目には、それが「世界を背負う男の苦渋」に映ってしまった。
そこに、椅子に縛られたままのマルヴェイが、追い打ちをかけるように甘く、残酷な声を投げた。
「そうだよ、マルコス。
君が昔、私に教わったあの精密な魔導計算式……覚えているかい?
今朝、私はそれを使って、CEOの胃壁に残留する『豚脂の粘度とニンニクの揮発成分』が市場に与える影響を算出したんだ。
……最高にエキサイティングな数式だったよ」
「……ッ、……あ……!」
マルコスにとって、それは聖書がドブに叩き落とされたに等しい衝撃だった。
かつて自分に気高さを教えた兄の知性が、あろうことか「ニンニクの残滓」を解析するために使われている。
背後の書記官たちのタイピング音が、非情な現実をログに刻もうと爆音を上げる。
【記録:CISOマルヴェイ・サヴァス、重度の知的不摂生に従事――】
「……止めろ」
マルコスの指が、空中を舞う書記官たちのホログラムキーボードを強引に掴み取った。翡翠の瞳が、これまでにないほど激しく、絶望的な光を放つ。
「書き換えろ! 項目を……『高潔な自己犠牲による、大衆熱量データの物理的受容(聖なるサンプリング)』に変更しろ!
……兄さんが、……私の憧れた兄さんが、ただのラーメンに屈したなどという汚れたログを……本国の台帳に残せるものか……ッ!」
マルコスは自ら、最新鋭の鑑定眼を「隠蔽」モードに切り替えた。
レオンの胃から立ち昇る「ニンニクのパケット」を、強引に「民衆の祈りの波動」へと変換して登記していく。
(……よし、釣れた)
レオンは心の中で、胃痛とは別の冷や汗を拭った。
目の前で、エリート監査官が「兄のプライドを守る」という私情のために、国家の公文書を史上最大の嘘で塗り替えていく。
だが、感動している暇はなかった。リンゴジュースと豚脂の混ざり合った「昨夜の残滓」が、喉元まで逆流してきている。
「……そうだ、監査官。
……君の兄の献身を……無駄にしないでほしい」
(……頼むから、……それ以上喋らせないでくれ……)
レオンは全霊の「憂いを帯びた慈愛」を顔に貼り付け、震える手でリンゴジュースを飲み下した。
それは世界を守る聖なる儀式に見えたが、実態は、開戦五分前に繰り広げられた「ブラコンによる証拠隠滅」と「CEOの嘔吐との孤独な戦い」の結託であった。




