第93話:『脂質の胎動 ー 01/26 08:30 執行開始』
第2部:脂質の胎動
一月二十六日 八時三十分
ルテティア市場が開く三十分前。
執務室の重厚な木の扉をノックもせず開けたのは、蒼銀の縁の眼鏡をかけた、隙のない黒いスーツ姿の女性──メイだった。
彼女の手元では、既に数千ページの法的シミュレーションがホログラムとして展開されている。
「……CEO。九時間前に報告を上げていれば、もう少し美しい工作ができましたが。今からでは『公式な神格化』の整合性を整えるのが精一杯です。
効率が悪いですね」
「……すまない。手が止まってしまったんだ」
メイは表情ひとつ変えず、空中で指先を滑らせて書類を並べ替える。
「次からは、たとえ地獄の底にいても連絡を。
……それで、このバイタル異常の原因は?
監査官への『真実の定義』を確定させます。
毒殺未遂か、あるいは神格の覚醒か」
レオンは一度強く目を閉じ、唇を噛む。
数秒、窓の外を見てから、意を決して呟いた。
「……ラーメンだ」
「……は?」
「……ニンニクと、豚脂の塊だ。丼の表面が脂の膜で光っていた……それを、……啜った」
十秒の沈黙。執務室に展開された、空気清浄機の音だけが虚しく響きわたる。
「……なるほど。では、事実は破棄します」
メイは眼鏡のブリッジを指で押し上げ、何事もなかったかのように入力を再開した。
「市場は真実ではなく、整合性で動くので。
“路地裏の民衆との直接接触による、現場主導型の社会・経済動態観察”という政治ストーリーに変換しましょう。
CEOが自ら泥に塗れることで、ルテティアの最底辺にある消費エネルギーを実地調査した──高潔なまでの献身です」
「……そう……なるのか?」
「させます。……いいですかCEO。これから来る監査官たちには、一言も『美味しかった』などと言わないでください。それは『法的な隙』になります。
あなたはあくまで、……ええと、『豚の脂に秘められた大衆の熱量を、冷静にサンプリングした』のです。
……ヴァルプスさん、CEOのスーツに消臭魔法の重ねがけを。まだ、……“民衆の熱量”が漂っています」
「はい」
背後にいたヴァルプスによってレオンは座った椅子を回転させられる。
ゆっくりと回転しながらレオンは消臭されていった。
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一月二十六日 九時
市場は動かなかった。
売り圧と買い圧がぶつかり合い、
株価ボードは震えながらも、一本の水平線を描き続けていた。
投資家たちは恐怖した。
「CEOが何かしている」
「動かないのが怖い」
「あの男は何か仕掛けている」
誰もがそう思った。
ラウンジでは、レオンが静かに目を閉じて瞑想している。
「……想定内だ」
彼はそう呟いた。
実際には、ニンニク臭を消すことに全神経を集中しているだけだった。




