『不夜城の除夜:偽証の代償』②
第2部:地獄の事務センター
地下深くに位置する事務センター。
そこは、地獄の業火よりも冷ややかな「書類の墓場」だった。薄暗いフロアに響くのは、規則的な印鑑の打突音と、マルヴェイの愉悦に満ちた低い声だけ。時折、整理の追いつかない書類が束になって雪崩れ、足元で硬質な音を立てて跳ね返るのが、この地獄の微かなBGMだ。
「……ねぇ、この帳簿の『一魔貨』の出所がそんなに気になるのかい?」
マルヴェイは、ベルフェゴール局から派遣された役人の喉元に、塗りたての黒い爪をそっと這わせた。役人の顔は土気色に染まり、眼鏡の奥の瞳は恐怖で泳いでいる。通信精霊が彼の肩で不吉に鳴き、煤けた羽をはばたかせた。
「調べてもいいけれど、その代わり、君の寿命も一緒にハックしてあげようか。
君が明日、心臓を動かすために必要な『権限』を、今ここで書き換えてあげる。
『君は百年前、すでに退職(死亡)している』という記録を過去に遡って確定させれば、もう二度と仕事をしなくて済む」
マルヴェイは、薄く笑ってみせた。
「――文字通り、存在ごと消滅できるよ?」
「け、検閲完了です! 即座に承認します!」
震える手で乱打される公認印。
通信精霊の羽毛と紙吹雪が、狂った祝祭のように舞う。レオンは、執務室に設置した隠蔽魔導モニター越しにその様子を横目で確認しながら、一切の淀みなくペンを走らせていた。
自律型・精霊演算回路による二重帳簿の自動照合は、すでに数秒前に完了を告げている。
マルヴェイという「致死性のスパイス」が外部の雑音をすべて物理的に黙らせる中、法的トンネルは誰にも気づかれぬまま音もなく開通していく。
レオンは下唇を親指で押し上げ、何度も資料を見返していたが、ふと机の下に視線を泳がせた。
「自由」という名の極夜に放り出されたはずのヴァルプスは、レオンの足元にうずくまり、充血した目で監視ログの奔流を追い続けている。
「……ヴァルプス、寝ろと言ったはずだ。君の体調管理も、私の仕事の内だぞ」
レオンが突き放した物言いをすると、ヴァルプスは青白い顔で、しかし誇らしげに口角を上げた。
「……ボクを縛る鎖は、もうどこにもありません。
だから今、ボクはボクという資産を、あなたのために贅沢に使い潰したい。
……これが、対等になったボクが最初に行使する『権利』です、レオン」
ヴァルプスの手が、レオンのスーツの裾を握る。その指先は、目の前の男を支え抜くという暴力的なまでの自己決定に、武者震いのように震えていた。
レオンはそこで困ったように微笑んでヴァルプスに手を伸ばす。労るようにヴァルプスの頬に手を添えたところで、人の気配がした。
「あぁ……なんだか、ここだけ甘ったるい匂いがするなぁ」
マルヴェイの独り言のような声が、二人の背後から降りかかる。
「おかえり。マルヴェイ」
「……ただいま。冷酷な閣下と、健気な子犬くん」
ヴァルプスは少し不満そうにしながら端末に視線を戻す。
レオンは努めて冷静に出迎えると、マルヴェイは「自分の席」を主張するようにソファに腰を下ろし、細長い両手を背もたれの縁に絡ませた。憑き物が落ちたように、あるいは憑き物が馴染んだように微かな疲労を滲ませるマルヴェイに、レオンは何気なく珈琲を差し出す。
「……毒は入っていないぞ」
「あれ、温度も完璧……?」
カップから立ち上る湯気に、マルヴェイが密やかに、そして驚きを孕んだ声を漏らす。
レオンが自分の「好み」を指先にまで記憶させていたという事実は、どんな脅迫よりも深くマルヴェイの心根を侵食した。
執務室に鳴り響く、バルナザールからの嫌がらせ通知。マルヴェイは満足げに珈琲を啜りつつ、空いた手で端末を叩いてはその不協和音を淡々と無効化していく。やがて痺れを切らしたバルナザールが、臨時の作業室の扉を「物理的に」蹴破って現れた。
「貴様ら! 私を無視して何の相談だ!」
立ち上がったマルヴェイが、優雅かつ毒のある口調で静かな反論を始める。
飛び交うPing音と罵声が、日常の雑音へと溶けていく。レオンはそれを合図のように受け止め、ヴァルプスと作業内容を確認しながら万年筆を握り直した。 自分を囲む「狂信者」たちの熱と、珈琲の香りに浮かされながら。
事務所の移転に伴って新しくなった、人員編成簿。レオンはその端に、小さく自分のサインを書き加えた。
※2026/05/18 大幅修正をしました。




