第90話:『緊急脱出 ー 01/24 01:50 執行開始』
第4部: 緊急脱出
店主は空になりかけたどんぶりを、顎でしゃくった。
「……おい、兄ちゃん。蓬莱の男はな、どんぶりの底の“ありがとう”を読むまでが仕事だ」
レオンは、脂の膜が張ったスープの深淵を見つめる。
かつて数兆魔貨の動向を読み取ったその眼は今、白い濁りの底に沈むわずかな漢字の輪郭を追っていた。
「……読めない」
「あぁ?」
「……到達する前に、私の視界が脂でホワイトアウトしている。
……物理的な限界だ」
「はぁ? 根性見せんかい!」
その時だった。
潔癖な路地裏の静寂を切り裂き、鋭いサイレンが響き渡る。青い閃光がトラックの窓を無慈悲に叩いた。店主が忌々しげに舌打ちし、平ざるをカウンターに叩きつける。
「……チッ、お巡りだ。野郎ども、どんぶり放せ! 飛ばすぞッ!」
仕切りをかき分け、店主は運転席へと駆け出す。運転席のレバーを引くと、赤提灯がシュルシュルと吸い込まれた。
刹那。魔導エンジンの咆哮とともに、トラックが猛烈なGで急発進した。
ベタつくカウンターが悲鳴を上げ、どんぶりが跳ねる。
「……ッ、ヴァルプス」
レオンは、ジャケットの上から悲鳴を上げる胃を必死に押さえた。
「はい」
「……揺らすな。……処理が追いつかない」
「ボクじゃありません。重力加速度の問題です」
「……スープが、逆流する……」
「それは経営陣として非常に困りますね。
……レオン、限界ですよ」
トラックが路地をドリフトし、椅子が滑り、残骸のモヤシが宙を舞う。
レオンの顔色から血の気が引いていく。ヴァルプスは冷静に主の「資産価値」の維持が不可能だと判断する。
「『根性』は来週のアジェンダに回しましょう。――緊急脱出です」
ヴァルプスの背中から漆黒の翼が爆発的に広がり、狭い荷台を闇で満たした。客たちが驚いて壁面にへばりつく。
「……待て、まだ承認して――」
「遅いです」
ヴァルプスは、胃を押さえて蹲る主の腰を「無造作に片腕でホールドした」。まるで、価値ある「機密情報」を戦火から運び出すような、事務的で無慈悲な手際だった。
闇が二人を包み込み、ひとつの黒い球を形成する。
次の瞬間、爆走するトラックの荷台からルテティアの夜空へと射出された。
「おいコラ!兄ちゃん! 忘れもん!」
魔導防壁シートを握りしめながら窓から見上げる客と、店主の怒号が遠ざかっていく。
空へ向かい急上昇したヴァルプスは、影の球を解し足元を行き交う車の光を見下ろす。
頬を打つ冷たい夜風。レオンはヴァルプスの腕の中で、かつてないほど情けなく目を閉じていた。
「……ヴァルプス。……私の……重心が、……著しく……不安定なんだが……」
「黙ってください。
……これ以上の『中身の攪拌』を防ぐには、この角度が最適解です」
翼が夜風を捉えるたび、レオンの192センチの体躯が空中で揺れる。エリートCEOの尊厳は、今や補佐官の腕の中で、「慎重な運搬を要するデリケートな貨物」へと成り下がっていた。
満月を背に、漆黒の翼が夜空を滑空する。
ルテティアの市民が仰ぎ見れば、それは福音をもたらす「黒い天使」の再来に見えたかもしれない。だが、その聖域の中で、救世主(CEO)はニンニクの毒に侵され、かつてないほど無様に顔を青くしていた。
「……ヴァルプス」
「はい」
「……エルフの尊厳が」
数秒の沈黙。
「……限界だ」
ヴァルプスは即座に影を展開した。
「了解しました」
「外部への情報漏洩は、ボクが全力で遮断します」
ヴァルプスは少しだけため息をつき、翼の角度を調整して飛行を安定させた。
「大丈夫です。あなたのニンニク臭い吐息は、ボクが影で全部遮断します」
その時、レオンの網膜でA.I.D.Aの青い光が呑気に点滅した。
『……マスター・レオン。
ごちそうさまログ、送信しました』
数秒の沈黙。
『……あ。……割り箸、……返し忘れましたね』
レオンは遠ざかる屋台トラックとパトカーを見つめながら、途切れ途切れに呟いた。
「……どんぶりの底の、“ありがとう”が……読めなかった」
その声は、ニンニクの匂いとともに、冷たく清浄なルテティアの夜風に溶けて消えた。




