第89話:『知性の溶解 ー 01/24 01:45 執行開始』
第3部:知性の溶解
一瞬、目を閉じる。
覚悟を決め、レオンは麺を一気に啜り上げた。
その瞬間、レオンの網膜ディスプレイが、かつてない警告色の奔流に染まった。
『──致命的エラー(Critical Error)。
……未知の過剰ナトリウム、および……重合した動物性脂質の……強制流入を検知。
……脳内報酬系……ドーパミンの垂直上昇を確認。
……マスター・レオン、……おめでとうございます。
……知性が溶解しています』
「ッ……、あ……」
熱い。そして、痛いほどに濃い。
二十二日の絶望に凍りついていたレオンの舌を、野蛮な塩分が焼き払い、神経を直接ぶん殴る。
これまで口にしてきた洗練された料理が、まるで見向きもされない「無価値な水」に思えるほどの、圧倒的な「生の重力」。
数秒、レオンの動きが止まった。
「……ヴァルプス」
「はい」
「……止まらない。
……箸が、……勝手に、……アルゴリズムを……無視して……」
「でしょうね。それは“食欲”という名の、最も原始的なバグです」
ズズッ。ズズズッ。
レオンは、数百万魔貨の袖口が脂ぎったスープに浸かるのも構わず、さらに麺を掻き込んだ。
咀嚼するたびに、刻みニンニクの刺激が鼻腔を突き抜け、脳の最深部で眠っていた生存本能を叩き起こす。死を願っていたはずの細胞一つ一つが、この「塩分」と「脂」を寄越せと、狂ったように叫び始めていた。
「……レオン。
今のあなたは、世界で最も……美しくない食べ方をしています」
隣で見ていたヴァルプスが、凍りついたような声で呟く。
だが、その管理官もまた、主から漂う「不浄な熱気」に当てられていた。
レオンの口端から零れ落ち、数万魔貨のシャツを汚していく背脂。ヴァルプスはその「資産の損壊」を止めるどころか、自らの指でその脂を掬い取った。
指先に残る、不快で、しかし生命力に満ちた熱。
彼はそれを拭うことなく、自らの唇へと運ぶ。
「……毒、ですね。ボクを共犯者にするつもりですか。
……妥当です。ボクも……『ログイン』します」
パキン、と小気味よい音を立てて箸が割れる。
ヴァルプスもまた、無造作に麺を掬い上げ、主と同じ「泥沼」へとダイブした。
屋台の外では、相変わらず『銀の秤』が蒼い光を放ち、潔癖な規律を監視している。
だが、この布切れ一枚の内側では、史上最強のCEOと最強の管理官が、汗だくになりながら、五百魔貨の「暴力」に脳を焼かれ、ただ一心不乱に麺を啜り続けていた。
A.I.D.Aのゆるい青い光が、満足げに明滅する。
『……全資産を……この一杯に……全プッシュ。
……不渡り(デフォルト)、完了です。
……マスター・レオン、……おかわりは……いかがですか?』
レオンは、どんぶりの底に沈む「ニンニクの澱」を見つめたまま答えた。
「……いいえ、A.I.D.A」
静かに、熱い息を吐く。
「まずは、この『絶望的な幸福』を……完全に……清算(完食)させてくれ」




