第88話:『着席の洗礼 ー 01/24 01:30 執行開始』
第2部:着席の洗礼
一月二十四日 一時三十分
レオンは意を決し、数百万魔貨の仕立てのいいジャケットの袖を汚さないよう、指先だけでビニール暖簾を捲った。
「……ッ、A.I.D.A。……この暖簾の表面、『重合した油脂』による粘着トラップが仕掛けられている。
……指が、離れないんだが」
『……肯定。……マスター・レオン。
……推定、……十年分以上の……豚脂の蓄積です。
……アルジャン・ブルーの清掃ギルドなら、即座に爆破処理を推奨するレベルの……汚染です』
ヴァルプスが背後から、凍りつくような手つきでレオンの指を暖簾から引き剥がした。彼は即座に、純白のシルクのハンカチを犠牲にして、レオンの指先をアルコールで殺菌するように拭き上げる。
「……レオン。この構造物、内部の空気が固形化しています。
……吸い込むだけで、肺胞が油膜でコーティングされる感覚だ。
……撤退を再考しませんか?」
「……否だ。
……これこそが、SNSで見た『不浄の聖域』の洗礼だろう」
二人が一歩踏み込むと、屋台内の狭いカウンターに座っていた数人の先客──規律から零れ落ちた浮浪魔導師たちが、一斉に箸を止めた。
場違いなほど美しい192センチの男と、発光しているかのようなオーラを放つ高級スーツの男。
店主は、鼻に大きな金のピアスをした無愛想な巨漢だった。彼は平ざるを振るう手を止めず、濁った目でレオンを射抜く。
「……おい、あんちゃん。……ここは『銀の規律』の管轄外だ。
……メニューは一つ。
……食うのか、……それとも『監査』か?」
レオンは、人生で初めて、ベタつく丸椅子を前に立ち尽くした。
椅子の上には、何かがこぼれたような、あるいは単に何十年も拭かれていないような、「歴史という名の汚れ」が重層的に堆積している。
「……ヴァルプス。
……この椅子、物理的に『座る』というコマンドを……受け付けるのか?」
ヴァルプスは自分の影から本来は対レーザー用である「最高級の魔導防壁シート」を取り出し、無造作に丸椅子へ敷いた。
「……レオン、このスーツの時価総額は、この路地裏一帯の地価に匹敵します。
物理的汚損による資産価値の下落は、我々のポートフォリオにとって許容しがたいリスクです」
ヴァルプスが指先でシートを平らに慣らすと、最高級の防壁結界が微かに発光し、数十年の油汚れを物理的に「拒絶」して、椅子の数ミリ上に浮遊する清浄な座面を作り出した。
「……レオン。
これで、直接の接触(汚染)は回避可能です。
……さあ、『着席』を承認してください」
レオンは、まるで断頭台へ向かう王のような悲壮な覚悟で、防壁シートの上に腰を下ろした。
「……店主。
SNSで見た、『ラーメン』という不渡りの味を、二つ『承認』する」
「……へっ。……ニンニク、入れんのかよ?」
「……ニンニクを……『マシマシ』で……お願い、する」
レオンは、かつて二十億魔貨の決済を承認した時と同じ、震えるような覚悟で「コール」を口にした。
『……警告(Warning)。……マスター・レオン。
……ニンニクの過剰デプロイを確認。……明日のバイタルデータは……絶望的です。
……ですが、……規律を破壊するには……最適の添加物です。
……承認完了』
店主はニヤリと笑い、汚れた平ざるを回した。
「……おう。……一杯、五百魔貨だ。……先払いで頼むぜ、あんちゃん。
……うちは『銀の規律』なんて魔導決済は扱ってねえからな」
レオンは一瞬、硬直した。
彼の世界では、支払いはすべてA.I.D.Aを通じた網膜上の電子決済か、秘書による一括請求だ。
「……店主。……網膜スキャンによる直接送金は不可か?
……あるいは、私の……このカフスボタンで清算は……」
「……へっ、そんな光る石っころ、お釣りが出せねえよ。……五百魔貨だ。
……ねえなら、外へ行きな」
レオンは、人生で初めて「資金不足(残高ゼロ)」という屈辱に直面した。
隣でヴァルプスが、溜息をつきながら自分の影に手を突っ込む。
ヴァルプスがカウンターに叩きつけたのは、数枚の薄汚れた銀貨だった。
非常時用にと用意していた「規律外の現金」が、ここで役立つとは。
「……ヴァルプス。……その債務(借金)は、必ず……」
「……いいですよ。
これは、ボクがあなたを『買収』した証拠ですから」
ヴァルプスは割り箸の林が突き刺さった筒から、一点の曇りもない二膳を選び出す。
「……これが蓬莱の『一回使い切り型』の魔導具か。
……なるほど、左右のバランスを均等に保ちつつ、物理的な剥離を行う必要があるのだな」
レオンは感心しながら手元に力を入れる。割り箸は左右非対称に分割され、レオンは不思議そうに握りしめた。
「……ヴァルプス。
……蓬莱のインターフェースは、左右を均等に分離することに、致命的な設計ミスがあるようだ」
「……いえ。レオン、あなたの力加減が、安物の木材に過干渉しただけです。
貸してください。……ボクが修正します」
ヴァルプスがささくれを影で削ぎ落とし、完璧な形に整えた箸を差し出すのと同時に、カウンターへ「それ」が着弾した。
「あいよ、『マシマシ』だ。……後悔すんなよ、あんちゃん」
ドォォォォンッ、と置かれたのは、もはや「情報の暴力」に近い巨大な山だった。
標高二十センチを超えるモヤシの断崖。その頂上から、溶岩のように流れ落ちる白い背脂。
麓には、レオンの指の太さほどある分厚いチャーシューが鎮座している。
『……山です』
「……違う」
『……山です』
「山ですね」
A.I.D.Aの実況が脳内に響く中、レオンは未知の重圧に身を硬くした。ルテティアの宮廷料理には存在しない、「美学」をかなぐり捨てた「生存のための熱量」。
「……ヴァルプス。
……どこからログイン(一口目)すればいいんだろうか」
「……知るか。……早く食べてください。
……あなたの美しい褐色肌に、脂質の粒子が物理的に癒着していく。
……耐えがたい」
レオンは意を決し、震える手で箸を山の麓へと突き立てた。
引き揚げられたのは、ドロドロの液体を纏い、黄色く変色した「束状の何か(太麺)」。
「……これが、……私という資産を破壊する『毒』か。
……いただく。
……すべての……規律の……外側へ」




