第87話:『背脂の巡礼 ー 01/24 01:00 執行開始』
第1部:背脂の巡礼
一月二十四日 一時
蒼銀連邦 アルジャン・ブルー。その首都ルテティアの夜は、あまりにも白く、そして潔癖だ。
銀の管理者たちが敷いた「公序良俗」という名の魔導舗装は、深夜一時であっても塵一つ落ちることを許さない。だが、その完璧な規律の網の目には、わずかな「綻び」が存在した。
隠蔽魔法で頭部の角を隠すレオンとヴァルプスの前で、A.I.D.Aの青い正八面体のクリスタル端末が震えてみせる。
『……マスター・レオン。
……SNSの深層学習、および闇ギルドのパケット通信を傍受。
……銀の規律(公序良俗)から最も逸脱した、“脂質による祭典”の実行地点を特定しました』
レオンの網膜に、鈍い青を帯びたA.I.D.Aのナビゲートが走る。
それはかつての「最適解」ではない。主を最も不健康に、最も無様に汚すための「最悪解」へのルートだ。
『現在地から徒歩十二分。
……護衛の巡回ルートの隙間を縫う“絶望の最短経路”を表示します。
……なお、警備ドローンには「CEOは瞑想中につき、心拍数低下を検知しても静観せよ」との偽装パッチを適用済み。
……さあ、行きましょう。マスター・レオン』
「……ああ。行こう、ヴァルプス」
レオンは、ネクタイのない首元を夜風に晒したまま、事務所の裏口から影へと滑り出した。
背後には、192センチの圧倒的な質量を持つ影――ヴァルプスが、音もなく従っている。その手元には分厚いコートが用意されていた。
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路地裏で足を止める二人。角を曲がる巡回機『銀の秤』の蒼白い光が、石造りの壁をチカチカと照らし、レオンの褐色の肌に鋭い影を落とす。
「レオン、動かないで。……今、当局の光学スキャンが通過します」
ヴァルプスがレオンの肩を抱き寄せ、主を壁際へと遮蔽した。音もなく浮遊する銀色のポッドが、潔癖な石畳をなぞり、不純な熱源を探して闇を切り裂いていく。
スキャン光が通り過ぎ、規律の共鳴音が遠ざかるのを待って、レオンは止めていた息を吐き出した。
『……スキャン、……回避完了。
……マスター・レオン。ここから先は、“規律の圏外”です。
……排熱パイプの……蒸気密度、上昇。
……ターゲット、……視認可能……距離です』
レオンは右手を軽く上げる。A.I.D.A端末を設置した腕輪が、鈍い青を放ちながら前方に細いレーザー線を収束させた。
石畳の冷たさが消え、代わりに湿った熱気と、動物性の脂が焼けるような「野蛮な匂い」が鼻腔を突いた。銀の規律で磨き上げられたルテティアの住民が、決して嗅ぐことのない、生存本能を揺さぶる悪臭――。
曲がり角の先、錆びついた排熱ダクトの下に、それはあった。
蓬莱皇国の国花やステッカーが何枚も貼られた、古い中型トラック。
ボロボロのビニール暖簾が夜風に震え、そこだけが街の照明から見捨てられたように、赤黒い魔導ランタンの光を放っている。
『萬福招来 猛毒必滅 地獄の沙汰も 箸一つ』
錆びついた荷台の側面に、血のような朱色で書き殴られていたのは、そんな不敵な「名句」だった。
「……あれか。SNSで見た……『不渡』という聖地は」
レオンの声には、十億魔貨の投資を決断した時よりも切実な、渇いた期待が滲んでいた。
レオンは執務中に見せる「冷徹なCEO」のオーラを纏ったまま、ビニール暖簾の隙間から漏れる獣臭い湯気を、まるで未知のバイオハザード(汚染物質)を見るような目で見つめる。
「……なるほど。固定資産(店舗)を持たず、流動資産のみで、当局の追及(徴税)を回避する。
蓬莱の『屋台経済』は、徹底したショート(売り)の戦略だな」
ヴァルプスは主を護衛しながら、トラック屋台の周囲を一周した。
「……レオン、この構造物……許可の形跡がありません。
……内部の熱源反応が異常です。
……そして、いつでも逃げられるようにエンジンが待機状態だ。
……食事中に、G(重力)がかかるリスクがあります」
「……ヴァルプス。いいじゃないか。
……これこそが、アルジャン・ブルーの規律を踏み倒す(デフォルト)ということだ」
A.I.D.Aは宙に浮きながら、SNSで見た「#RAMEN」のハッシュタグを空中にホログラムで投影した。
『……肯定。
……ハッシュタグ「#ルテティアの胃袋」「#銀の規律の裏側」で、……月間一万件以上の……「インプレッション」を獲得した……不浄の座標です。
……なお、投稿者の82%が、翌朝、激しい後悔を報告しています。
……デプロイ(入店)の準備はよろしいですか?』
ヴァルプスが眉をひそめ、主の高級なシャツの袖を掴む。だが、レオンはネクタイを外した首筋に、路地裏の湿った熱気を受けながら、一歩を踏み出した。
「……構わない。
A.I.D.A.。……全承認だ。
……行くぞ」
※ラーメン回です。




