『完璧な業務:降伏点への同調』①
第1部:全体会議
【次元境界・バルナザール宮殿/黒曜石の円卓会議室】
現世の時間軸では夜の二十一時過ぎ。雪深い宿の一室で、レオンの安定した寝息を最後に確認してから窓辺を見た。
支給されたばかりの端末を握りしめ、ヴァルプスは静かに意識を沈めた。
次の瞬間――視界は一転する。
柔らかな琥珀色の光に満ちた大ホール。天井は見上げても終端がなく、幾重にも重なる承認魔法陣が、ゆっくりと呼吸するように明滅している。
足元は磨き上げられた黒曜石。その床面は、上空の符号を映す鏡のようだった。
円卓会議室。だが、それは単なる卓ではない。
中央にひときわ高い円盤状の演壇。そこを囲むように、段差を持った同心円状の席が幾重にも連なっている。まるで――スタジアムか、あるいは円形闘技場だ、とヴァルプスは思った。
上層へ行くほど魔力の密度が濃く、下層へ行くほど席数が増える。
自分が案内されたのは、第三円環の最前列。第二円環に最も近い位置。だが、明らかに“所属”を示す部門紋章や階級札はデスクに用意されていなかった。
――末席、かつ特例のノンタイトル。ヴァルプスは瞬時に状況を決済する。
しかし、腰を下ろした瞬間から、肌を刺す空気が違った。
周囲からの視線。ああいう風に露骨ではないが、確実に向けられている。
(……おい、どこの所属だ?)
(アカウントがある=認証パスは本物だ)
(だが階級札(ID)が出ていない……?)
(直属……なるほど、察した。あれが、例の『特例採用(新人)』か)
声にはならない思念が、魔力の波として肌を撫でる。大悪魔の系譜としての敬意はある。だが好意など微塵もない。徹底的な「資産査定(値踏み)」だ。
「……よう、新人。随分と気合の入った顔をしてるじゃないか」
低く朗らかな声。振り向くと、破壊管理課の部門長――ザガンが立っていた。
現世では戦場を渡り歩く屈強な軍人として擬態している男。今日は軍服の第一ボタンを外し、魔力煙草をくゆらせている。
「ザガンさん、おはようございます。……なんだか、皆さんのんびりしていませんか?」
「当たり前だ。閣下が直々に『時間調整』をかけてくださったんだ。現世の数時間が、ここでは丸一週間。これこそ大悪魔の直轄領で働く最大のインセンティブってやつだよ」
そう言って、ザガンは愉快そうに笑う。
「……まあ、その分、お前さんはたっぷり『教育(OJT)』されるだろうがな」
背中を軽く叩かれ、ヴァルプスは小さく笑って受け流した。視線は自然と、円卓全体へ向かう。
第一円環には、名の知れた上級悪魔や役員貴族たち。静かに座っているだけで、空間のキャパシティを圧迫する圧倒的な存在感。第二円環には、各部門長クラスが並び、ホログラムの帳簿や魔導書を操作している。
そして、自分も――数に入っている。だが、どこの組織にも属していない。
快楽調整課のシトリーが、すでに席に着いていた。
ホログラムに映る「快楽供給グラフ」を赤い指先で操作しながら、ヴァルプスに気づくと妖艶に微笑む。
「ヴァルプスくん、こっちにいらっしゃい。……あら、いい魔力の色ね」
黒い視線が、評価するように上下する。
「上級悪魔に昇格してから、少しは『男』の顔になったじゃない。でも、あなたの提出した初期レポート、読ませてもらったわよぉ? あの極上のエルフを相手に、手繋ぎと調律(添い寝)だけだなんて……」
赤い爪が、挑発的にヴァルプスの頬をなぞる。
本能派の悪魔らしい、ルールを無視した距離感だった。だが、ヴァルプスは一歩も引かない。笑顔のまま、その指先を丁寧に躱す。
「私なら初日で魂の最深部(ルート権限)まで暴いて、依存の檻に閉じ込めてあげるのに。コツとか知りたいなら、いつでも教育してあげるわよ?」
「……お気遣いありがとうございます、シトリーさん。ですが、現段階ではその必要はありません」
ヴァルプスはお行儀のいい笑顔のまま、真っ直ぐに先輩を見つめ返した。
「ボクの担当するレオン・ド・ラ・ノワールは、依存を最も嫌う『自律』の騎士です。無理に檻へ閉じ込めれば、彼の精神構造は崩壊し、検体としての資産価値が著しく毀損してしまいますから」
淡々と。完璧な業務報告のトーンで。
「彼がご自分の意志で『服従』を選び続けられる環境(檻)を整える。それが、ボクの現期管理業務目標です」
一瞬、シトリーの目が細くなった。享楽の魔女から、一人の「プロフェッショナル」としての冷徹な光へ。
「……へぇ。言うじゃない」
その瞬間――。
会議室の重厚な黒曜石の扉が、静かに開いた。
黒衣に身を包み、鋭い眼鏡をかけた男――バルナザールが歩を進める。入室した、ただそれだけで、室内の全魔力が一瞬で整列した。ざわめきが消え、全役員の意識が中央へと強制的にコミットさせられる。
「私語はそこまでだ」
低く、冷徹な声。
「諸君、着席しろ。これより、今期第四四半期『バルナザール部門・現世契約維持報告会』を開始する」
ヴァルプスは背筋を伸ばし、黙ってデスクを見つめた。
発言権など与えられていない。だが――この席に座らされた時点で、彼はすでにこの冷酷な支配システムの一部だった。
現世のレオンが眠る数時間の裏で行われる、時を止めた「一週間」という名の過酷な査定と修行。
これが、大悪魔バルナザールの支配領域。
――ヴァルプスの試用期間は、すでに始まっている。
※2026/05/21 大幅修正をしました。




