第6話:『剝がれ落ちる仮面、あるいは共犯者の夜』— 日常(実戦)
第1部:論理の墓標、上司の眼光
【場所:バルナザール宮殿・第1特別監査室】
重厚な黒檀の扉が閉まった瞬間、そこは外界の音が一切遮断された「論理の墓場」と化した。円卓の中央、バルナザールが魔導端末を叩く指先の音だけが、ヴァルプスの鼓動を急かすように無機質に響く。
「……さて。
お前たち二人が並んで座っている姿を見ると、我が社の『コンプライアンスの欠如』を象徴しているようで、非常に不愉快だ」
バルナザールの声は、低いが絶対的な質量を持って部屋の空気を押し潰す。彼は眼鏡を指先でわずかに押し上げ、黄金の双眸でヴァルプスを射抜いた。
「アリストフェル。
お前は現場で独自の『停滞』美学を振りかざし、本来は流動的であるべき現世の資産――あの村の生命活動を勝手に標本に変えた。
……そしてヴァルプス。お前はその『規格外の不良品』を見て、恐怖するどころか目を輝かせて憧れた。
……あまつさえ『煉獄茶』などという不適切な贈賄を受け取り、業務中にティータイムを楽しんだそうだな?」
「父上、ボクは……! あれは挨拶の一環で……!」
「『父上』ではない」
一喝。その瞬間、バルナザールの影が壁一面に巨大な角を広げ、ヴァルプスの肩には数トンの重圧が物理的にのしかかった。
「ここは監査室だ。
私は上司であり、お前は入社したばかりの新人、ヴァルプスだ。
私をその名で呼ぶ権利は、今の貴様にはない」
バルナザールは立ち上がり、ゆっくりと円卓を回る。彼の歩みに合わせ、床がかすかに沈み込む。
「ヴァルプス。
お前が守っているのはレオン・ド・ラ・ノワールの人生ではない。
お前自身の『可愛がられたい』という矮小なエゴだ。
契約者に虚偽の報告書を書かせ、元騎士のその手を詐欺に染めてまで得た安らぎに、一体何の価値がある?
貴様が提供しているのは『救済』ではない。
ただの『甘やかし』という名の麻薬だ。
……契約者の魂を汚してまで得る睡眠は、さぞかし心地いいだろうな?」
「……っ……」
ヴァルプスは唇を噛み、隣のアリストフェルに助けを求めるように視線を送った。だが、先輩悪魔は目元を隠した黒面の下で、ふっと口角を上げ、挑発的にバルナザールを見据えたままだ。
「……専務。そう怒らないでください。
ヴァルプスくんは、私の『狂気』を見たからこそ、今の『完璧な管理(檻)』を築く決意をしたのですよ。
……私のような『美しすぎる失敗作』にならないためにね。ね、ヴァルプスくん?
彼は私の惨状を反面教師にして、あの方を永久に閉じ込める方法を学んだ。
これは一種の、素晴らしいOJT(職場内訓練)ですよ」
「……詭弁だな、アリストフェル」
バルナザールの指先から放たれた威圧感が、部屋に漂うアリストフェルの薄荷の香りを一瞬で霧散させた。
「貴様の『失敗』を教育の糧と言い換えるその厚顔無恥さだけは、評価してやらんこともない。だが、他部署の契約領域を乱し、新人に『悪魔の不誠実』を伝染させた罪は、言葉遊びでは拭えん。
アリストフェル。
貴様には向こう三ヶ月、全契約の凍結と、北極圏での『氷の彫像監視業務』を命じる。
吹雪の中で、誰にも聞かれない自慢話を氷像に語り続けていろ」
アリストフェルの薄笑いが、わずかに引き攣った。
「そしてヴァルプス。
……お前が今日、レオンの腕の中で眠る際、彼が君に『嘘を吐かされた』という事実を忘れるな。
お前は彼を救っているのではない。
お前の弱さを守るための盾にしているのだ」
バルナザールは扉を指し示した。
「……今すぐカフェテリアへ消えろ。
お前たちが汚した『悪魔の誠実さ』の残り香を、不味いソーダで洗い流してくるがいい。
……泡が消えるまでに、自分たちが何者であるかを思い出すんだな」
「失礼……いたしました……」
ヴァルプスは、震える膝を必死に支えて立ち上がった。
アリストフェルは、一礼すらも皮肉な優雅さを保ったまま、ヴァルプスの背中を押すようにして部屋を去る。
扉が閉まる直前、バルナザールの背中から、冷徹な上司とは異なる「低く、重い響き」が二人を追った。
「――ヴァルプス。
次に私の前に立つ時は、『管理役』としての顔を見せろ。
……それまでは、二度と私の私邸に足を踏み入れるな」
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第2部:薄荷の残香、残酷な助言
【場所:悪魔界魔王本社・最上階ラウンジ「エリュシオンの影」】
監査室の重苦しい空気とは対照的に、ラウンジは静謐な優雅さに満ちていた。
天井は高く、夜空をそのまま切り取ったような黒真珠のドームには、星の代わりに本物の魂の破片が鈍く光りながら明滅している。
ヴァルプスが座るソファは、絶滅した魔獣の産毛で織られた最高級品で、身体が沈み込むたびに微かな魔力が神経を癒やす。だが、今のヴァルプスには、その心地よさがかえって「罪悪感の重み」を強調しているように感じられた。
アリストフェルは、水晶のテーブルに置かれた磁器のカップを指先で遊ばせている。 ラウンジの窓の外には、地獄の赤茶けた大地ではなく、次元の狭間を流れる青い燐光の河が見えた。
「……ねぇ、アリストフェルさん」
ヴァルプスが、不味いと評される魔力ソーダに浮かんだ薄荷の葉をストローで突きながら、消え入るような声で口を開いた。
「父上が言ったこと……やっぱり、ボクが甘かったのかな。
レオンを、あの人の純粋さを守りたいって思うのは、悪魔として間違ってるの?」
アリストフェルは、ティーカップから立ち上る湯気を眺め、ゆっくりと瞬きをした。
「いいかい、ヴァルプスくん。君はさっき専務の前で、レオンくんのことを『レオンはボクが守らなきゃいけない』と、涙ぐみながら力説していたね。
……あれは、本気でそう信じているのかい?」
「……えっ? そりゃあ、そうです。
レオンは元騎士で、誰よりも誠実で、ボクのわがままに困りながら笑ってくれる……。
ボクが管理という名の盾をしっかり掲げてあげないと、あの方は現世の汚れに当てられて、すぐに壊れてしまう」
ヴァルプスが必死に弁護するのを、アリストフェルはしばらく無言で見つめていた。 やがて、彼は耐えきれないといった風に、肩を揺らして笑い出した。目元は黒面で覆われていてわからないが、そのぶん大口を開けて彼は笑う。
「ははは……!
ヴァルプスくん、君は本当に、最高の……そして最高に滑稽な『小悪魔』だね」
「……笑うことないじゃないですか。それにボクいま上級悪魔ですし」
「笑わずにはいられないよ。
君はエルフという種族の寿命を、ただの数字だと思っているのかい?
相手は460年も生きた男だよ?」
アリストフェルは優雅な仕草でソファに背を預け、長い足を組み替えた。
「その長い年月。
彼がどれほどの血を浴び、どれほど人間の醜悪な欲望を最前線で捌き、どれほど厚い『嘘の皮』を剥いできたと思っているんだい。
……そんな男が、君のような子供の悪魔に守られるほど、純粋で無垢なわけがないじゃないか」
ラウンジの空気が、アリストフェルが放った「毒」によって一気に冷え込む。
「彼はね、君が自分のために一生懸命、必死になって『優しい嘘の壁』を築き上げているのを、特等席で見物しながら楽しんでいるんだよ。
……君がひとりで罪悪感を背負って、『ああ、ボクが彼を守らなきゃ』と使命感に震えながら尽くしてくる……その献身、その支配。
それこそが、今の彼にとって一番の受容であり、最高級の『煉獄茶』なんだ」
アリストフェルは身を乗り出し、呆然とするヴァルプスの耳元に顔を寄せた。薄荷の鋭い香りが、ヴァルプスの鼻腔を突く。
「君が『看守』を演じれば演じるほど、彼は安心して『無力な収集品』を演じられる。
……君は彼を閉じ込めているつもりだろうが、実は、その『檻』の中に自分から入って、君に鍵を持たせているのは彼の方だよ。
飼い慣らされているのは、君かもしれないね? ヴァルプスくん」
アリストフェルは、ヴァルプスのソーダに自分のお茶を数滴、悪戯っぽく滴らした。
「君の嘘こそが、今の彼にとって唯一の『生きている実感』なんだ。
彼は君の支配を受け入れることで、初めて自分の460年の空虚を埋めているのさ」
アリストフェルは、立ち上がり際にふと足を止めた。
窓の外の燐光の河ではなく、ヴァルプスの影を見て、低く呟く。
「……まあ、安心したまえ。
君が本当に“壊す側”なら、専務は君を叱らない。
何も言わずに、回収している」
一拍置いて、いつもの薄笑い。
「叱られたということはね。
君はまだ“社員”だ。――それだけは、覚えておくといい」
そして何事もなかったように去る。
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第3部:聖域の陥落、捕食者の微笑
【場所:現世・宿屋の一室】
扉を開けた瞬間、部屋に満ちていたのは暖炉の温もりではなく、冷たく鼻腔を刺すような――アリストフェルが残した「毒」そのもの、薄荷の香りが澱のように沈んでいた。
「……おかえり、ヴァルプス。今日も遅かったね」
影の中から響くレオンの声は、凪いだ海のように静かでありながら、その奥に逃れられない深淵を孕んでいた。
「ただいま、レオン。……お待たせして申し訳ありません」
ヴァルプスは「完璧な管理官」の仮面を被り直し、レオンの肩に触れた。しかし、その指先が微かに震える。
バルナザールに「矮小なエゴ」と断じられ、アリストフェルに「特等席の受容」と嘲笑された動揺が、皮肉にもレオンへの接触を通じて、脈動と共に伝わってしまった。
「……嘘が下手になったね、ヴァルプス」
レオンが不意に振り返り、ヴァルプスの頬を熱を帯びた指先でなぞった。
「バルナザールさんに吸い取られて……。
それとも、アリストフェルという男に、何か余計な呪いでもかけられたのかな。君の瞳が、ひどく怯えている」
レオンはヴァルプスの細い手を掴み、指を一本ずつ、骨が軋むほど深く絡めていった。逃げ場を塞ぐような、あまりに密接な恋人繋ぎ。
「ボクは……主さまに、完璧な安らぎを……」
「……ふふ。君が一生懸命築いたその『嘘の城』に、私がどれほど救われているか……バルナザールさんには分からないだろうね」
レオンはヴァルプスの首に唇を寄せ、熱い吐息が直接、ヴァルプスの脊髄を麻痺させるように揺らす。
「感謝しなきゃね、ヴァルプス。
君がどれだけ私を必要としてくれるか、それを見せてくれたからこそ、帰らせてくれた地獄に。
……でも、いいかい、君がどれだけ完璧な看守を気取っても、私の前では、隠しきれない『綻び』が見えてしまうんだ」
ヴァルプスは息を呑んだ。自分が見守り、保護していると思っていた「純粋で壊れかけの騎士」は、どこにもいなかった。そこにいたのは、ヴァルプスの嘘も、苦悩も、バルナザールに詰められてボロボロになった惨めささえも、すべてを「自分への甘美な供物」として美味しく平らげ、喉を鳴らす老練な捕食者だった。
「君が弱さを隠して必死に守ってくれる、その姿が実は一番『本物』の君なんだ。狡くて、私を独占したくてたまらない。
……それが君という悪魔の真実だろう?」
「主さま……主さま、やっぱり、性格悪いよ……。
ボクが……ボクがいないとダメなフリをして、ボクを閉じ込めているのは、あなたの方じゃないか……」
「……そうかもね。でも、もう遅いよ」
絡めた指を解くことなく、レオンはヴァルプスの首筋に深く顔を埋め、その柔らかな肌に歯を立てた。痛みと悦びが混濁する中、ヴァルプスは悟る。
自分は、傷ついたレオンを「箱」に入れて守っているつもりだった。だが、実はレオンという名の巨大な箱に、自分から飛び込んで鍵を閉めてしまったのは、自分の方だったのだと。
かつて北極星という、遥か遠くの光を仰いでいた騎士の瞳。
それは今、暗闇の中で自分を閉じ込める「小さな箱(悪魔)」の温もりだけを、狂おしく、そして執着に満ちた熱量で求めていた。
「さあ、ヴァルプス。……続きをしよう。
君の吐く嘘で、今夜も私を窒息させてくれ」
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。
※ 収集家の物語:短編集(450歳時代)
第18話:『狂化案件現世第七層 ― 薄荷の停滞』関連




