『完璧な業務:降伏点への同調』②
第2部(特別実技研修)
【実習室】
真っ白な、無機質の極みのような空間。
中央の寝椅子に横たわる魔導マネキンを見た瞬間、ヴァルプスは反射的に一歩退いた。
――再現度が高すぎる。
細い血管の浮き、呼吸の再現パルスに合わせてわずかに上下する胸郭。
精巧すぎる造形が、現世の宿に残してきた「主さま」の残像を脳裏に呼び起こし、思考の精算を鈍らせる。
「視線が逃げているぞ」
バルナザールが眼鏡のブリッジに指をかけ、冷徹に事実だけを告げる。
その背後で、副官のワセリが無言のまま魔導タブレットを起動した。彼はバルナザールの感覚的なセリフを翻訳するため、休暇中に引っ張られてきた理性派悪魔だ。驚くほどの無表情で、だがしかし確実に任務を遂行するべく直立している。
「感情は不要だ、ヴァルプス。これは負荷検証だ」
バルナザールはマネキンの胸元に指を置き、青いホログラムの構造図を展開する。
「レオン・ド・ラ・ノワールの精神構造は、慢性的な罪悪感リーク状態にある。不用意な接触は精神の焼損か、あるいは強固な自閉を招く。重要なのは、初期アプローチの順序と魔力圧だ」
「優しくするなという意味ではありません」
ワセリが淡々と補足する。
「自分が優しくしたいという私欲(理由)を、対象にログインさせるな、ということです」
ヴァルプスは喉の奥で息を詰めた。
「……君は、彼を慰めようとしている」
ワセリの視線は、タブレットの数値に落ちたままだ。
「それは私情だ。業務ではない。『可哀想だから触れている』と演算された瞬間、管理の主導権は破綻します」
バルナザールが短く頷く。
「では、フェーズ・イン(段階的接触)に入れ」
――段階的接触。
「手首。指を一本ずつ。ディレイ(遅延時間)は〇・五秒」
ヴァルプスは喉の渇きを覚えながら手を伸ばす。
人工皮膚に触れた瞬間、指先から微かな振動波が返ってきた。レオンの肉体が持つ独自の魔力圧の揺らぎ。
守りたい、救いたいという激情が指先から漏れ出しそうになる。だが――
「止め」
即座に、容赦のないカットインが入る。
「圧が甘い。欲情ではないが、庇護が漏れている」
「……庇護、ですか?」
「君は守る側に立とうとしている」
ワセリが冷淡に告げた。
「この調律空間においては同列だ。点検者と設備。そこに上下を作るな。徹底的に無機質であれ。それが、防壁の壊れかけた今の彼にとって最も安全なシェルターだ」
ヴァルプスは深く息を吸い、感情と感覚の回線を切り分ける。
ただの点検者。これはただの、摩耗した精密機械のメンテナンス。
指先の微振動だけにすべての意識を集中させ、再び触れる。
「……よし」
バルナザールが言った。
「それが同調だ。過度な拒絶も、歪な依存も生まない。純粋な業務としての接触だ」
(……難しすぎる)
愛したい、甘やかしたいという衝動のすべてが、ここでは「不純物」になる。
それを殺さなければ、彼の領域(夜の底)には進めない。胸の奥が軋むような痛みを無視して、ヴァルプスは指先を動かす。
――非言語的強制。
バルナザールが背後に立ち、ヴァルプスの指の角度を強引に修正した。大悪魔の冷たい指先が、容赦なく肉体の最適解を叩き込んでくる。
「鎖骨。降伏点だ」
マネキンの肩と胸が、システム通りに強張る。
指先の圧を垂直に維持しながら、ヴァルプスの心臓が早鐘を打った。
「躊躇は正常です」
ヴァルプスの表情をみて、ワセリが静かに言う。
「君は言葉で同意を取りたいタイプだ。だが、この対象は長年の摩耗で『言葉』という資産を信用していない。確実に触れるなら、拒否できないほど安全で、精密な管理を肉体の回路に直接理解させる必要があります」
「角度を五度下げろ。圧は垂直」
バルナザールの指示が重なる。
「ボクに任せてではない。この悪魔に身を預けても、自分は絶対に壊れないと、筋肉に教え込め」
ヴァルプスは指先の震えを鉄の意志で抑え込み、深く指を沈めた。
擬似筋肉の弛緩率が、ホログラムの数値として跳ね上がる。手のひらに伝わる人工の温もりが、現世で眠る本物の騎士の体温と重なった。
「……成功だ」
バルナザールは淡々とホログラムを閉じる。
「お前のやり方は非効率で、情が多すぎる。だが――」
一拍。
「事後に対象が『自分を嫌わない』。それは、我が部門においても極めて希少な成果だ」
「現段階で、君が童貞(未経験)であることは問題ではありません」
ワセリが事務的に付け加える。
「感情の処理方法を確立できないまま現場に立つことが最大のリスクです。今日は、その処理方法を実技で学んでいます」
「……次だ」
バルナザールが告げる。
「事後の絶望を遮断するメンタルバリア工程に入る。残り十二項目」
「……十二項目」
ヴァルプスは遠い目をしながら、小さく苦笑した。
ワセリが、ほんのわずかに肩をすくめる。
「ここを越えれば、君は壊さない管理官として正式に認可されます」
愛という荒々しい衝動を殺し、技術という名の絶対的な献身に変える。
どんなに胸が痛もうとも、手を止めることは許されない。
それはあまりにも過酷な、しかし――
ヴァルプスにとって、これ以上なく誇り高い地獄の研修だった。
※2026/05/21 大幅修正をしました。




