第82話:『残照 ー 01/23 17:00 執行開始』
第8部:残照
一七時
市場の取引終了(大引け)を告げる鐘が、ルテティアの街に鳴り響いた。
ド・ラ・ノワール事務所、一階。
全面ガラス張りの社員食堂「ラ・フォンテーヌ」には、冬の低い陽光が赤砂のように差し込み、巨大な魔電掲示板が【終値:前日比プラス一二%】という驚異的な数字を、誇らしげに映し出していた。
社員たちが魔導端末を弄りながら、将来への安堵と少しの毒を含んだ談笑をしている。
そこへ、一二階の静寂から「承認マシーン」が降りてくる。レオンが姿を現した瞬間、一瞬だけジャズの音が遠のくような静気配が走った。
社員たちの視線には、「救世主」への敬畏と、「とんでもない騒動を起こした上司」への呆れが混ざり合っている。
レオンは、金本が設営した屋台の片隅で、山積みになった「1魔貨パン」の最後の一つを手に取り、決済をする。
「……一七時。市場閉鎖。……本日の全ログ、同期完了」
レオンの呟きに、背後から音もなく現れたメイが、手元の分厚いタブレットを叩きつけるように閉じた。
「……お疲れ様でした、CEO。
おかげさまで、当局への弁明資料は三千ページを超え、ヴァルプス管理官は今、調理場で『どて焼きのカロリー計算』を巡って金本さんと口論をしています。
……そのパンを食べたら仲裁に向かってください」
メイの言葉に、レオンは僅かに口角を上げた。
窓の外では、アルジャン・ブルーの夕闇が降り始めている。一階を包むパンの香りと、社員たちの生気あるざわめき。それこそが、レオンが数千億の資産を「ノイズ」として燃やし尽くしてでも、守りたかった「規律ある日常」だった。
レオンは、冷めかけたパンを一口噛み締めた。
その瞳の奥で、琥珀色の光が静かに眠りにつく。
「おいしい」
――だが、彼らはまだ知らない。
この「救済」という名の甘い嘘が、明日にはより深い「執着」という名の毒に変わることを。
蒼銀の残照が、一二階の透過した床を通り抜け、地下で眠るアルトのサーバーを静かに照らしていた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




