『薪の香りと黒い通知』④
第4部:幸福の計上と強制監査
胸の奥で揺れたその名残は、言葉になる前に、外気と一緒に断ち切られた。
「すいませーん! マジで外、吹雪いてるんで! 入らせてもらっていい?」
扉が叩きつけられるように開き、暴力的なまでの粉雪と騒音が、静謐な宿の空気を一気に掻き回す。
先頭に立っていたのは、冒険者風の軽装を纏った長耳の男――カイウスだった。
融け始めた雪を肩や緑髪に散らしたまま、遠慮という概念を母胎に置き忘れてきたような笑顔で室内を見回す。その背後から、大樹の影のように静かな足取りでヴァレリオンが続いた。その黒髪は雪でまだらに塗りつぶされている。
「……セリオン、すまないな」
レオンは、深い水底から一気に引き上げられたような脱力感と共に、苦笑した。
セリオンは小さく肩をすくめて薬缶を持つ。
この宿は、いつもこうだ。
レオンが感傷に沈みきるのを、世界が、あるいはこの顔見知りが許してくれない。
「やあ、レオン。おまえを追いかけるのマジで面倒くさいわ……って、マジで角、生えてんじゃん。
画面越しじゃなくてナマで見ると、質感が全然違うね。
これ、なにで出来てるの?骨?それとも魔力の結晶?」
距離感を測るという工程を完全に省略し、カイウスが子供のように無邪気な顔でレオンの頭部に指を伸ばす。
瞬間―― 視認できない速度で「影」が走った。
「触るな」
低く、温度のない声。 いつの間に背後に回ったのか、ヴァルプスの影の刃が、カイウスの指先を微塵も傷つけることなく、その“意思”だけを両断する位置でピタリと静止していた。
「主さまの『機能美』はボクの検収対象です。
お前のような野良エルフが、許可なく触れていい資産ではありません。
……指の温度計が狂うでしょう」
「えー、ケチだなあ。
ヴァレリオン、見てよこのカーブ。芸術点高いだろ」
「そうだな。硬そうだ」
騒ぎの中心から一歩距離を取り、ヴァレリオンはすでに勝手知ったる様子でカウンターに腰を落ち着けていた。
セリオンと並び、安酒の入ったグラスを受け取りながら、場の熱量を冷静に観測する眼差し。
その光景を、レオンは深く沈み込んだソファの中から、半ば諦めたように眺める。
(騒がしい。 ――だが、悪くない)
膝の上では、いつの間にかヴァルプスが専用のオイルを取り出し、角のケアがいかに重要か、そして主のバイタルがいかに変動しやすいかを、呪文のように唱え始めている。 背後ではカイウスの軽薄な笑い声。
カウンターからは、グラスが触れ合う低い音。
魔導端末を取り出し、レオンは静かにその構図を切り取った。
少しだけ角が生え、人間への戻り方を忘れた自分。
完全には戻れない場所へ降りた、その途中の歪な姿。 それでも、確かに今、独りではなく「ここ」にいるという、経営指標には表れない証拠。
カシャリ、と無機質な音が鳴る。
『アメリア。変わりはないかい。
こちらは予定通り、少しだけ騒がしい夜を過ごしている』
アメリアへの送信。返信は、通信環境の悪さを無視したような速さで届いた。
『楽しそうですね、レオンさん。
……お土産に、その角の感触を持って帰ってきてくださいね。
宝石よりもずっと、価値があるものですから』
淡く、冷たく、そして指先に残る熱のように優しく。 レオンは、今夜二度目の、本当の微笑みを浮かべた。
バルナザールが承認していないはずの、あるいはオスカルが「無価値」と切り捨てるはずの、「自由」という名の偽装ログ。それがこの宿の中だけは、確かに命を持って実在している。
――その確信が、レオンの胸を芯から温めた。
その熱を切り裂くように、小さく、端末からアラームが鳴る。
掌の中の画面が、「禁忌の黒色」に明滅した。 端末を貫いて、魂の裏側にまで響くような冷たい信号。
《強制監査通知(ping)》
『いい休暇だね、レオン。……だが、三割の数字に少しノイズが混じっている。
私の許可なく、勝手に幸せを計上するのは規約違反だよ。
十二月二十四日、その宿まで迎えに行ってもいいんだよ?』
バルナザールの声が、脳内に直接こびりつく。
「……やれやれ、どこまで見ているのやら」
一瞬にして宿の熱気が吸い取られ、レオンの瞳から情緒が削ぎ落とされていく。
彼は立ち上がり、汚れ一つないミッドナイトブルーのジャケットを羽織ると、再び「ド・ラ・ノワール家」という名の呪縛へとその身を投じた。
吹雪は、まだ止んでいなかった。
※2026/05/20 大幅修正をしました。




