第72話:『深夜の変数欠落 ー 01/23 02:00 執行開始』
第2部:深夜の変数欠落
時計の針が、深夜二時を回る。
執務室の空調の音だけが、耳障りなほど規則正しく響いていた。
レオンの指が、空中に浮かぶ光の配列をなぞるのを止めた。……いや、「止まってしまった」。
完璧なはずの計算式のなかに、どれだけデバッグしても消えない「ノイズ」が混じっている。
それはメイの言葉か。
あるいは、自分自身が切り捨てたはずの「何か」か。
褐色を帯びた彼の指先が、微かに震えていた。
「……おかしい。A.I.D.A。再演算だ。
……私の『死』によって発生する損失は、基金の運用益で補填できるはずだ」
『……マスター・レオン。
補填不能。……数式第107項において、算出不能な項目が存在します』
「……算出不能?」
『当該項目は、現在の演算式において定義されていません。
しかし当該変数は、生存ルートを選択した瞬間にのみ、巨大な資産へと反転します』
「……何だと? 第107項……?
そんな項目、私は定義していない」
レオンは血走った瞳で、膨大なコードの深淵を覗き込んだ。
そこにあったのは――
彼が四百六十年をかけて磨き上げた、美しき計算式の中央にぽっかりと空いた、
空白(Null)だった。
メイが、そして世界が、当たり前のように数式の中央に置いていた変数。
誰もが前提として扱う、あまりにも自明な入力値。
ただ一人、レオン・ド・ラ・ノワールだけが、
それを最初から存在しないものとして削除していた。
【管理官ヴァルプスの幸福度・生存維持意欲】
それは、レオンの設計図には、最初から存在しなかった。
変数の定義漏れ。……いや。存在の無視。
「……ふ、……はは……」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。
四百六十年の英知を集め、編み上げた『Project Leon』。
それは、
「ヴァルプスが悲しむ」
――という、子供でも理解できる一行の条件分岐(if文)さえ実装していない、欠陥だらけのゴミ(コード)だった。
最悪の初歩的ミス。
完璧な論理を組むべき設計者として、そして家族として。
取り返しのつかない、傲慢な切り捨て。
レオンは、自分が噛み砕いていた固形食料の「木灰色の破片」を、吐き気がするような無機物として飲み込んだ。
口の中に残るのは、己の無能を象徴するような、砂を噛む感覚だけだった。
それでも彼は、震える指で演算式を再実行する。
だが、結果は変わらない。
論理は、彼を救わなかった。




