第70話:『修正の完了 ー 01/22 11:30執行開始』
第4部:修正の完了
一月二十二日 十一時三十分
魔導署名の光が空中で青白く霧散し、契約の確定を告げる無機質なシステム音が室内に響いた。
メイ・D・アイアンは、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、感情を完全に濾過した鉄色の瞳でレオンを一瞥する。
保存魔法の紋章が刻まれた重厚なバインダーに契約書を収める彼女の手つきは、まるで一人の男の運命を永遠に封印するかのように冷徹で、淀みがなかった。
レオンはその光景を、自分の心臓の一部が取り上げられるのを見届けるような面持ちで見守り、消え入りそうな声で問いかけた。
「……メイさん。
バルナザール顧問への報告は、君の『義務』に含まれているのか?」
メイは椅子に深く座り直し、組んだ両手を机に置いた。その動作一つ一つが、法という名の絶対防御を象徴している。
「いいえ。
私の契約は、あなたという『依頼人』の利益を確定させることのみに縛られています。
バルナザール氏に情報を売るような不潔な真似は、私の美学に反するわ」
彼女はそこで初めて、微かに口角を上げた。それは慈悲ではなく、獲物を完璧な檻に閉じ込めた狩人の満足感に似ていた。
「安心なさい、CEO。
私はあなたの味方ではありませんが、あなたの『嘘』……死ぬことを許されない、その無様な生存計画の唯一の守護者よ」
レオンはわずかに強張っていた口元を緩め、安堵と絶望が入り混じった溜息を吐いた。バルナザールから託された『銀の名刺』を、自らの罪を隠すようにポケットの奥底へと押し込む。
その直後、応接室の重い扉が、外側からの圧力に耐えかねたように跳ね上がった。
そこには、「一ミクロンの情報漏洩も許さぬ執着の化身」が立っていた。
魔圧で廊下を軋ませながら、ヴァルプスが踏み込んでくる。
彼はレオンの姿を認めるや否や、その喉元から足先までを、敵意に近い鋭さでスキャンした。
「……レオン。三十分と四十五秒。
顧問の差し金と何を話し、あなたのシステムにどんな『外部パッチ(契約)』を当てられたのですか」
ヴァルプスの真紅の瞳には、主が自分の手の届かない場所で、自分以外の「盾」を手に入れたことへの、激しい拒絶と焦燥が渦巻いている。
「顧問の紹介は、やはり優秀だった。
……正式に、契約を結ぶことになったよ」
「……何の契約です?」
「叔父上対策の、包括的な法的顧問契約だ」
レオンは努めて事務的な微笑を浮かべ、ヴァルプスの差し出した大きな手に、自らの手を重ねた。
だが、その掌は隠しきれなかった。メイとの契約――「死」という出口を塞がれ、「ヴァルプスの資産」として生きることを強制された絶対零度の緊張により、氷のように冷え切っている。
「……嘘ですね。
あなたの心拍は、今、ボクの知らないリズムで刻まれている」
ヴァルプスは、レオンの指を壊さんばかりの力で握りしめた。逃がさない。この拍動の乱れが、自分に隠した「何か」によるものだという確信が、彼の理性を焼き焦がす。
「……レオン。ボクに隠す必要、ありますか?」
ヴァルプスは一歩踏み込み、レオンの至近距離でその瞳を覗き込んだ。
「ボクのものなのに」
独占欲を隠そうともしないその言葉が、室内に重く沈殿する。
レオンは、自身の胸の内で1.6%のログが悲鳴を上げているのを感じた。目の前の男を救うために選んだ「心中」が、今この瞬間、この男に一生を貢ぐための「終身刑」へと書き換えられたのだ。
「……ヴァルプス。私は、どうやら」
レオンは視線を彷徨わせ、それから諦めたように目を閉じた。
「……死ねないらしい」
その告白は、敗北宣言のようでもあり、救いを求める子供の独白のようでもあった。
ヴァルプスは、レオンの絶望を吸い上げるようにその手を一層強く引き寄せ、狂おしいほどの安堵を浮かべて微笑んだ。
「……それは、とても良いことですよ、レオン」
レオンの腰を掴み、そっと抱きしめる。
主の絶望すら、繋ぎ止める鎖になるのなら――それでいい。
世界で最も甘く、
そして最も残酷な修正が――
今、完了した。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




