第69話:『前提の棄却 ー 01/22 11:00執行開始』
第3部:前提の棄却
一月二十二日 十一時
「事実は一つ、解釈は無限。……沈黙は金、防御は鉄」
都心の摩天楼の最上階。受付も秘書も観葉植物すら存在しない無機質な廊下に、その法律事務所の標語が、冷たいレリーフとして刻まれていた。
『メイ・D・法律事務所』。
ここは、法を「解釈」する場所ではなく、法を「製造」し、不都合な真実を「沈黙」へと変換する隔離病棟だった。
レオンの隣には、朝のパンケーキで「一時の休戦」に合意したはずのヴァルプスが、鋭利な刃物のような殺気を隠すことなく控えている。
「……ヴァルプス。ここで待て。
……これは顧問が推奨した『法的武器』の受け取りだ。
物理的な護衛(君)は、入り口で私の『所有権』を誇示していればいい」
「……承知しました、レオン。
……ですが、中にいる『顧問の差し金』が、あなたのシステムに不当なアクセスを試みれば、ボクはこのフロアごと『強制終了(物理破壊)』しますよ」
赤い瞳を背に、レオンは一人、防音と遮断の魔法が幾重にも施された応接室へと足を踏み入れた。
入り口のスキャナーに、バルナザールから託された『銀の名刺』を滑らせる。
カチリ、と重厚なロックが解ける音。それは、ここから先では「感情」という情報漏洩が一切許されない世界であることを告げていた。
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全面硝子の向こうに広がる空を背に、一人の女が立っていた。
メイ・D・アイアン。
六法全書を模した鈍い銀色の電子デバイスを指先で弄びながら、レオンが入室しても視線すら上げない。
「……五分遅い。CEO」
硬質な氷が触れ合うような音。
メイの第一声が、部屋に冷たい空気を流す。
「一分ごとに、あなたの生存確率は0.5%ずつ毀損される。
……今朝のパンケーキの甘い残り香を消すために衣装の調整をしていたのなら、そのコスト計算は致命的に間違っているわ」
レオンは、メイが一度も自分を見ていないにもかかわらず、自身の「朝食の欺瞞」を見抜かれたことに、背筋が凍る戦慄を覚えた。
バルナザールが「私ですら一度敗訴させられた」と認めるメイの存在は、レオンにとって「絶対的な力の証明」だった。
(バルナザールの貸し(呪い)を受けるのはつらい。
だが、あの方を法的にねじ伏せた『鉄の女』なら、叔父上という呪縛さえ断ち切れるかもしれない……)
レオンは感情を殺し、「合理的な敗北」を選んででも、最強の武器を手に取ることを優先した。
「……挨拶は抜きか、メイさん。
……顧問からは、もう少しフレンドリーな相手だと聞かされていたのだがな」
椅子を引くレオン。
メイはようやく顔を上げ、感情を完全に濾過した「鉄」の輝きを瞳に宿す。
「『敗北は統計学上のエラー』。
私の辞書に、フレンドリーという不確実な変数は存在しない。
……さて。あなたの持ってきた相談案件を見せなさい」
レオンは、バルナザールから託された『銀の名刺』の認証を解き、「この場で扱う情報は完全に機密扱いとする」という簡易的な守秘義務契約に印を刻む。
それから空中に一枚の電子契約書を投影した。
「……これを見てくれ。
叔父上との間に結ばされた、十月の満期に私の『存在』を代価とするオプション契約だ。
これを法的に無効化、あるいは、公共資産への影響を最小限に抑えたい。
……それと、これが私の用意した『精算(心中)プラン』の全貌も添えておく」
メイは差し出されたホログラムを一瞥し、僅かに目を細めて動きを止める。
眼鏡の奥の鉄のような瞳が、データの羅列をスキャンする。空中に投影されたホログラムを、指先で弾くようにスクロールさせた。
レオンは今まで積み上げてきた実験に対して評価を待つ生徒のように、所在なげに膝の上で両手を握った。その瞳には微かな「期待」の色が混じっている。
(どうだ、メイさん。叔父上へのバックドア、1魔貨契約、そして週二回の罵倒修行……。
これほど客観的かつ緻密に組み上げた『死のロードマップ』は、他にないはずだ……)
「……CEO」
メイが不意に動きを止め、眼鏡の奥の鉄色の瞳をレオンに向けた。
レオンは思わず、身を乗り出す。
「……はい、メイさん。不備、は……ないかな?」
「……0点。やり直しよ」
メイの冷徹な一言が、部屋の温度をさらに数度下げた。
レオンの期待に満ちた表情が、凍りついたように固まる。
「……どうして? 不備はないだろう?
自律型精霊演算回路(AIエージェント)にも演算させて実務を積み上げてみたのだけれど」
「……論外ね。いい、CEO?
あなたのこの計画書、『叔父を倒すための武器』じゃなくて、単なる『あなたの逃避願望』の書き置きよ」
「……お、おねしょ……っ!?」
レオンは生まれてきて自己確立してから口にしたことのない言葉を復唱し、目を泳がせて口元に手をやる。
メイは椅子を回し、逃げ場を塞ぐようにレオンを正面から見据えた。
「出来ません。 却下よ。
あなたが作ったこの『バックドア』も『デジタルツイン』も、今この瞬間に、『あなたが生き残り、叔父を一生飼い殺すための罠』として私がプログラムを書き換えたわ。
おめでとう。あなたは今日から、死ぬことすら私の『法的許可』が必要な、世界で一番不自由な私のクライアントよ」
「どういうこと……?」
レオンはA.I.D.Aと繋がる腕輪に手を当てる。しかし事務所に入った時点でマナーとしてA.I.D.Aとオフラインにしていたことを思い出した。
ごくり、と喉を鳴らしてメイを見つめるレオンの青い瞳は、まるで理解することを拒否するような、縋るような光を滲ませていた。
「……どういうこと、って。……そのままの意味よ、CEO」
メイは、レオンが縋るように見つめる青い瞳を、冷徹な「鉄」の眼差しで射抜く。
「……待ってくれ、メイさん! 計算は合っている!
叔父上のオプション行使による実害を最小化し、私が消えることで全てを相殺できる――
……破綻は、ないはずだ。私は、砂になれる」
レオンは、震える手で空中のホログラムを指し示す。そこにはAIエージェントが算出した「成功率98%」の数字が、虚しく明滅していた。
「……計算は合っているわね。でも、『前提条件』がゴミ(ジャンク)よ」
「……ゴミ……っ!?」
「あなたは『自分が死ぬこと』を定数として置いているけれど、私のシミュレーションでは、あなたの生存こそが『最大利益』なの。
……CEO。あなたが砂になって消えた後、ヴァルプスはどうなると思う?
1魔貨の価値しかない主人の抜け殻を抱えて、一生バルナザール顧問の言いなりになって生きるのが、あなたの言う『救済』?」
「それは……っ、自由になるための、1魔貨契約で……」
「甘いわ。1魔貨で買ったものが、翌日に消えてなくなったら、それはビジネスではなく『不当な損失』よ。
いい? 十月十日、あなたのバックドアは開く。でもそれは、あなたが死ぬための出口じゃない。
叔父様の全資産をヴァルプスの口座へ流し込み、彼を世界一裕福な『あなたの飼い主』にするための吸引口に、私がたった今、設定を書き換えたわ」
「……な、なんだって……?」
「……おめでとう。あなたは今日から、叔父様から解放される代わりに、ヴァルプスの『1魔貨の永久資産』として、一生をかけて彼に利益を貢ぎ続けることになるのよ。
……さあ、次の議題に移りましょう。その無意味な『罵倒修行』の講師、バルトロメの解雇通知書はどこ?」
「……メイさん。……冗談、だろうか」
レオンは、膝の上で拳を握りしめた。
脳裏をよぎる「せっかく100年耐えたのに」「死ねないのか」という暗い熱量を、A.I.D.Aに頼らず、自力で「実務的な問い」へと強引に変換する。
(……抑えろ。今ここで私が揺らげば、ヴァルプスに……あの子の脳に、私の絶望が『毒』として流れ込む……!)
「計算は、完璧だった。
……叔父上のオプション行使による実害を最小限に抑え、私が消えることで……全ての負債を……オフセットする……」
一文字ずつ、氷を噛み砕くような声。
メイは、レオンの眉間に寄った強い皺と、限界まで張り詰めた「凪」の状態を、面白そうに観察している。
「……計算は合っているわね。でも、『前提条件』がジャンクよ。
CEO。あなたは『自分が死ぬこと』を定数として置いているけれど、私のシミュレーションでは、あなたの生存こそが『最大利益』なの」
「生存、が……利益……?」
「ええ。ヴァルプスにとって、あなたの死は『1魔貨の全損』よ。
あの子がそんな不利益を望んでいると、本気で思っているの?
……あなたが砂になって消えた後、あの子が泣きながらあなたの身体を掃除する。
……それがあなたの言う『救済』なの?」
メイの言葉が、レオンの思考の「急所」を正確に貫く。
レオンの視界が一瞬、赤く明滅した。
(……っ、ヴァルプス……!!)
「……っ、メイさん。……それ以上は、……やめてくれ。
……今の言葉、……私のシステムに、……想定外の負荷が……」
レオンの喉から、掠れた嗚咽のようなノイズが漏れる。
メイは軽くため息をつき、魔導端末に手をかけた。事務所自体の防犯セキュリティのランクを最大値まで引き上げる。メイの背後の窓が全て鉄の色に変わり、防御魔法が展開される。
「……窓を、閉めたのか」
レオンは喉を鳴らし、暗転した室内に浮かび上がるメイの冷徹なシルエットを凝視する。
外気も、光も、ヴァルプスへの回路も、今はメイの張った防御膜によって減衰されている。
「ええ。あなたの『計算外の熱量』で、私の事務所の固定資産を損壊されるのは困るもの」
メイは、光を失った硝子窓を背に、残酷なまでの「救済」を口にする。
「さあ、CEO。あの子に気付かれないうちに、あなたのその三流のプライドを、私が『再定義』してあげる」
レオンは暗くなった室内を見回してその異質さに逆に冷静を取り戻す。
目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。バルトロメの言葉を思い出して、胸に手を当てた。
「……バルトロメの解雇通知書は、出しません。彼は、私に必要だ。
……ヴァルプス。彼は、彼には光だけ見てほしいんだ。そのためなら私は私という資産を使い切りたい。
……でも、前提がおかしいんだね?」
「……そう。前提が、壊滅的に間違っているわ」
メイは、暗転した室内で赤く灯る魔導端末の光を背に、レオンの「子供のような問い」を冷たく、しかしどこか見放さない響きで受け止める。
「……バルトロメをクビにしない? ええ、好きになさい。
あなたのその『子供じみた意固地さ』を維持するためのコストくらい、今の私のプランなら、叔父様の隠し口座から一秒で捻出できるわ」
「……っ、メイさん。……私は、……」
「『ヴァルプスには光だけ見てほしい』? ……笑わせないで。
あの子は悪魔よ。光を反射する宝石を暗闇で独占することに、何よりの悦びを感じる生き物。
……CEO。あなたが自分を使い切って『消える』のは、あの子から光を奪うことと同じなの。……まだ分からない?」
メイはゆっくりと歩み寄り、執務机を挟んでレオンの瞳を覗き込む。
「……あなたがやるべき『実務』は、死ぬ準備じゃない。
『ヴァルプスの所有物(1円の資産)』として、あの子の隣で永遠に、最高純度の絶望と愛を放ち続けることよ」
レオンは、メイの圧倒的な「正論(生存の檻)」を前に、もはや言い返す言葉を失う。
「CEO、……私を雇いなさい。
あなたの絶望を、最高の結果に変えてあげます」
(……死なせてくれない。……砂にならせてくれない。
……メイさんは、本気で私を……生かすつもりだ)
「……わかった。……わかった、メイさん。
……契約だ。
……すべてを、預けることは出来ないけれど」
レオンは力なく、しかしようやく「生存」という重い選択肢を、震える手で受け入れた。




