『公証人の屈辱と、名前の奪還』⑤
第5部:帰還、あるいは柔らかな包囲網
鏡の前で深く息を吐き、ネクタイを外す。
肩の力を抜くと、街の雑踏や地獄の役所での戦略が、ほんの少し遠くなるのを感じた。
「さて……帰るか」
まだ日の落ちぬ外の景色を見ながら邸宅へ帰る。
途中でレオンは魔導通信機を弄り一通のメッセージを送った。
『いまから帰る』
地獄の命運を書き換えたその指が綴る、あまりにも家庭的な連絡。
玄関の扉を開けると、毛糸の香りと柔らかな室温がレオンを迎え入れる。肩に残った緊張が、初めて緩む瞬間だった。
「おかえりなさい、レオンさん」
微笑む彼女の声が、まるで世界のざわめきを消してしまったかのように静かに響く。
レオンがリビングに足を踏み入れると、そこには大きなソファに腰掛けて編み物をしている宝石姫の姿があった。手を止めた宝石姫は、宝石の角を優雅に揺らしながら、レオンを見上げ、微笑んだ。
「おかえりなさいませ。お召し物、お預かりします」
その背後から滑るように現れたヴァルプスは、風呂上がりの湿った髪を揺らしつつ、柔らかな部屋着に身を包んでいた。
深いミッドナイトブルーのスーツを脱ぎ捨てたその姿は、まるで戦場から帰還した騎士のようでもあり、どこか子どもっぽさを感じさせた。
「……ああ。ただいま」
レオンは深くソファに沈み込み、肩の緊張をゆっくりと解放した。地獄の計略や暗殺の緊張は、今や遠い景色のようだった。
「レオンさん、少し顔色が悪いですよ? 」
宝石姫の声は、気配り過ぎていて、それが少しだけ過剰に感じられた。彼女の眉間にわずかにシワが寄る。
「レオン、お風呂の用意はできています。あなた好みのハーブソルトも用意してあります」
ヴァルプスがその言葉を誇らしげに口にする。その手の動きの際に、少しだけ視線を強く引き寄せるように、意識的にレオンに近づいた。
「……ああ。もう少ししたら、入るよ」
「レオン、疲れていますね。ほら、少しこちらへ」
ヴァルプスは膝を立てて、レオンの肩へと手を伸ばす。その動きには、優しさの裏に計算された意図が感じられた。反対側から宝石姫が、手を伸ばす。その手元に微かな緊張が宿っている。
「私にも……」
彼女の声は穏やかだが、一言一言に、レオンに対する淡い不安が見え隠れしていた。
ソファの左右から二人の手が、自分の肩を愛おしむように伸びてくる。だが、その手のひらが触れる度に、レオンの中にはわずかな警戒心がよぎる。
視界の隅に、二人の眉根がわずかに寄る影が見えた。一瞬、火花が二人の間に飛び散ったような気がした。
「……あまり強くしないで……くすぐったい」
レオンの呟きは、無理矢理に作り笑いを浮かべたような、少し苦笑いを感じさせる。
微かに目を細めたその呟きは、二人の楽しげな談笑に包まれ、わずかな戦慄を帯びた空気も、柔らかく揺らぎながら消えていった。
左右から伸びる手。
宝石姫からは、現世の陽だまりのような柔らかな香りと清潔な宝石の冷たい匂い。
ヴァルプスからは、風呂上がりの熱気と獣の匂い、それに混じった鋭利な魔力の昂ぶり。
レオンの嗅覚は、この二つの香りの境界線で、互いを牽制しあう「微かな焦げ付き」のような感情の匂いを、無慈悲に、そして正確に捉えていた。
(……不自然だ。歪んでいる)
宝石姫の過剰なまでの配慮。ヴァルプスの、執着を塗り隠した献身。
普通の人間なら「愛されている」と錯覚するその温もりも、今のレオンにとっては、自分を逃がさないための「柔らかな真綿の檻」の感触に近かった。
だが、今のレオンにはそれを解きほぐす気力はなかった。
鏡の前で「泣き顔」を捨ててきた代償として、この歪な均衡の中に身を沈めることだけが、唯一の休息であると、彼は理解していたから。
◆悪魔界 役所発行「身分証」(書き換え後)
地獄台帳管理局・認可証
氏名: ヴァルプス(暫定個体名)
所属: レオン個人資産・家族権下
階級: 特例上級(管理職)
特記事項:本個体は現在、レオン閣下の直轄管理下にあり、全契約責任はレオンに帰属する。バルナザール専務による旧管理権は完全に解除済み。魔力的承認・公証済み。不干渉推奨。
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◆ 現世市民権・身分証(現地盤・書き換え後)
発行機関:現世台帳管理局・認可局(現世支部)
氏名:ヴァルプス・ド・ラ・ノワール(正式個体名・市民登録済み)
所属:レオン個人資産・家族権下(従兄弟として登録)
階級:特例上級(現世管理職相当)
特記事項:本個体はレオン閣下直轄の資産・家族権として完全管理。
従兄弟として家族登録され、血縁・財産・魔力上の保護が付与。




