第67話:『甘い前払い ー 01/22 06:00執行開始』
第1部:甘い前払い
一月二十二日 六時
「A.I.D.A.。この『労い(パンケーキ)作戦』の成功率は?」
『98.4%です、マスター。
対象の血糖値上昇に伴う、交渉拒絶反応の低下が予測されます』
「よし。……これでいこう」
レオンは、A.I.D.Aの算出した無機質な数値をバックボーンに、自信を持ってターナーを握り直した。
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鼻を擽る甘く香ばしい匂いに、ヴァルプスは無機質に瞳を開けた。
隣の寝床はすでに冷えている。視線を転じれば、昨夜レオンが脱ぎ捨てたミッドナイトブルーの残骸――しわくちゃになった最高級のジャケットとスラックスが、主の「管理放棄」と、そして「一晩中、共にいたはずの不在」を雄弁に物語っていた。
ヴァルプスは自身の胸元や首に残る、昨夜主が刻んだはずの熱を確かめるように手を当てる。赤い瞳には、自己管理の極致であるはずの自分が、主より後に目覚めたという「管理不届き」への戦慄が走っていた。
「レオン! ……申し訳ありません、ボクは、あろうことか寝過ごし――」
リビングへ滑り込んだヴァルプスの言葉が、物理的な衝撃を伴って凍りついた。
視界の先には、数万円は下らない高級シャツの袖を不格好に捲り上げ、どこから見つけてきたのか紺のルームパンツ姿のレオンが居た。
不格好なパンケーキを前に、見たこともないほどの自信に満ちた微笑を浮かべている。
「……おはよう、ヴァルプス。
……パンケーキが、焼けているよ」
レオンは事務的な声音を装うが、その捲り上げられた肘のあたりには、白い粉が「未処理のバグ」のように付着していた。
「君の好きなラズベリージャムも、適正な温度で抽出した紅茶も、すべて配置済みだ。
……座って」
「……レオン。……あなたが? ……この、状態で?」
ヴァルプスは、主のあまりに非効率で、かつ自分への「労い」に満ちたその姿に、眩暈を覚えた。その「不器用な献身」こそが、自分の管理不足という大罪を塗りつぶしていく。
192cmの巨躯が、レオンの差し出した椅子に力なく沈む。
「……私の、特注品だ」
レオンは期待に満ちた青い瞳で、ヴァルプスがパンケーキを口に運ぶのをじっと見守った。
その純粋な視線こそが、ヴァルプスにとっては何よりの「毒(劇薬)」であることを、レオンもA.I.D.Aも、計算しきれていなかった。
ヴァルプスは、不格好なパンケーキの一片を、聖遺物を扱うような手つきで口に運んだ。
舌の上で広がる過剰な甘みと、主が自ら火を使ったという「非効率な熱」が、管理官としての警戒心を甘く麻痺させていく。
「……おいしいかい、ヴァルプス」
レオンは、相手の喉が嚥下のために動くのを「交渉チャネルの開放」と見なし、捲り上げた袖口の粉を払いながら、極めて自然に、事務的なトーンを差し込んだ。
「……食べてくれたなら、一つ『相談(稟議)』がある。
……今日、広報(PR)の候補者――グリッチ・ピクセルを、執務室に招く」
ヴァルプスの手が、ピタリと止まる。
銀のフォークが皿に触れる微かな金属音が、静まり返ったリビングに「不穏なノイズ」として響いた。
「……広報、ですか。レオン。
……この甘い前払い(賄賂)で、貴方は何を買い取ったおつもりですか」
ヴァルプスの赤い瞳が、スッと細められる。
その声は、甘いパンケーキの香りを切り裂くような冷徹さを帯びていた。ヴァルプスは主の「隠し事」というノイズを正確に検知している。
だが、レオンは動じない。捲り上げた袖の白い粉――「不器用な献身の証拠」をあえてヴァルプスの眼前に晒しながら、極めて事務的に、かつ残酷なほど甘いトーンで続けた。
レオンは捲り上げた袖の白い粉を、わざとヴァルプスに見せつける。
「……買い取ったのではない」
その声には、甘さと事務的な冷たさが混ざっていた。
「君の『管理コスト』を最適化するための、必要な外注だ」
レオンの言葉のひとつひとつに、ヴァルプスは赤い瞳を揺らす。
「彼には、私の『安っぽい虚像』を作らせる。
世間に偽物を流している間に、本物の私(資産)は、誰にも邪魔されず、君の腕の中にだけ……『隠蔽』させておける」
一拍置いて、レオンは軽く微笑む。
「……わかるだろう、ヴァルプス?」
ヴァルプスの手が、一瞬止まる。
「……君だけが本物を知っている、という優越感。
君を唯一の保管場所として指名した私の意志。
……これを拒否できると思うか?」
レオンは、わざとらしく小首を傾げ、ヴァルプスの顔を覗き込む。
その論理的な誘惑に、ヴァルプスの防壁は音を立てて崩壊した。
「自分だけが本物を知っている」という優越感。主が自分を「唯一の保管場所」として指名したという事実。
ヴァルプスの喉の奥から、諦めと悦びに満ちた、低い溜息が漏れた。
「……ずるい方だ。……そんな『計上』を提示されて、ボクが却下できるとお思いですか」
ヴァルプスは再びフォークを手に取り、今度は降伏の証として、残りのパンケーキをゆっくりと、しかし確実に嚥下した。
レオンの脳内で、A.I.D.Aが『第一フェーズ:グリッチ・ピクセル導入の合意完了』のログを静かに刻んだ。
ヴァルプスが最後の一片を嚥下し、紅茶を一口。
完全に「牙を抜かれた」状態を見極め、レオンはカップを持つ指先にわずかな力を込め、事務的な声音を一段と低くした。
「……もう一つ。……『付随契約』がある」
ヴァルプスの赤い瞳が、微かな警戒を帯びてレオンを射抜く。
「……十一時に弁護士事務所へ向かう。
……顧問が直々に手配した、専門家だ」
「……顧問が、手配した、弁護士?」
案の定、室内の魔圧がピリリと跳ね上がった。
せっかくパンケーキで塗りつぶしたはずの「バルトロメの冷たさ」が、バルナザールという名詞一つでヴァルプスの脳裏に蘇る。フォークを握る指先に力がこもり、円卓が微かに軋んだ。
「……大丈夫だよ、ヴァルプス。
もし弁護士が顧問の手先といえど、私の『真実の帳簿』には一生辿り着けない」
レオンは身を乗り出し、ヴァルプスの手の甲の上に洗剤の使用で油分の減った指先をそっと重ねた。ヴァルプスは微かに眉を寄せる。
「……私のすべてを把握できているのは、世界で君一人だけでいい。
……そうだろう?」
「……はぁ。あなたは本当に、ボクを……死ぬまで『管理』させ続けるおつもりですね
……わかりました。いいでしょう」
ヴァルプスは諦めたようにレオンの手を握り返し、数秒、目を閉じた。
頭の中ではすでに、バルナザールへの殺意を押し隠し、粉に塗れたレオンをどう拭き上げ、保湿クリームを塗り、交渉相手の前に立たせるに相応しいどの衣装を着せようかと、管理官としての演算が始まっていた。
「……さて、レオン。
交渉が成立した以上、その『粉まみれのCEO(欠陥資産)』を、商談相手の前に晒すわけにはいきません。
……来てください」
ヴァルプスは、レオンの手を引いて浴室へと促した。
レオンの脳内で、A.I.D.Aが『作戦成功:交渉チャネル完全合意』のログを静かに刻む。
ダイニングテーブルに残された白い皿は、嵐の前の静かな停戦協定の証拠のように、朝日を浴びていた。




