『公証人の屈辱と、名前の奪還』③
第3部:破綻の兆し、裏切りの扉
「……OV-07。個体名なし、真名未付与。……冗談でしょう」
ベヒラは、眼鏡の奥の節穴のような目をしばたたかせ、差し出された役所用の正式な羊皮紙を突き返そうとした。
「エルフの『悪魔昇格』申請だけでも前代未聞だというのに、その同行個体――バルナザール専務所有の『備品』を独立した上級役員として登記しろだと?
手続き上、そんなものは……」
「『手続き』なら、既に完了している」
レオンの低く、冷徹な声が防護ガラスを微かに震わせた。彼はスーツのポケットから、黄金色の輝きを放つクリスタルの記録媒体をカウンターに置く。
「中を見ろ。
今期、私がバルナザールに納めた配当ログだ。その末尾に『調整金』という項目があるはずだ。
……それは、この個体……ヴァルプスの製造原価、および維持費の全額償還分だ。
彼はもう、バルナザールの『借り物』ではない。
私の個人資産として買い取りが済んでいる」
ベヒラの手が止まる。記録を確認するにつれ、彼の顔から血の気が引いていった。
「な……なんだ、この額は!?
一括償還? バカな、こんな勝手な決済、上役(専務)のチェックシートが通るはずが……」
「ああ、それなら私が『まぜっかえして』おいたよ」
背後から、楽しげな声が響く。マルヴェイがレオンの隣に立った。
「ベヒラくん。君、字が読めないのかな? その申請書、よく見てよ。
右下の『保証人』の欄」
マルヴェイが細長い指で示した場所には、サヴァス家の優美な花の紋章が押されていた。
「この案件は、私が『既存データの不備修正』として受理を保証している。
新規登録じゃなく、単なる『台帳のデバッグ』だ。
……ねえ、わかる? 修正扱いなら、上役の承認フローを介さずに、君の権限で今すぐ『完了』の判子を押せる。そのあと、私がこの申請書をシステムの『索引漏れ』にしておいてあげるよ。
バルナザール専務が気づくのは、すべてが終わった決算期のあとさ。……違うかな?」
「そ、そんな詭弁! バルナザール閣下にバレたら、私は魂ごと消去されます!」
ベヒラが叫ぶと、レオンがカウンターに身を乗り出した。その青い瞳が、今や獲物を追い詰める悪魔のそれへと変貌する。
「……ベヒラ。
今すぐここで判子を押せば、君の帳簿には『滞納されていた莫大な償還金を回収した』という最高の手柄が残る。
拒めば、私は今すぐこの資金を引き上げ、君の窓口で致命的な欠損を起こしてやる。
……どっちが早く消されるか、賭けてみるか?」
ベヒラが絶望に顔を歪ませると、レオンはさらに声を低めて畳み掛けた。
「……安心しろ。専務が帳簿の異変に気づく頃、君は既に別の部署へ栄転しているか、あるいは私の息のかかった場所へ逃げ延びている。
……君の『生存』は、私が保証しよう」
「ひ、ひぃ……ッ!」
ベヒラは、狂ったように判子を掴んだ。
重苦しい音が響き、羊皮紙に魔法のインクが吸い込まれていく。
庁舎のどこかで、低く長い警告音が鳴り始めた。
隣で静止していたヴァルプスの首筋から、製造番号「OV-07」の文字が煙を上げて消滅した。
代わりに、レオンの魔力と同じ深い青色の光が、彼の肌に小さな紋章を刻み込んでいった。
首筋の熱を、ヴァルプスは指先で確かめる。それはバルナザールから与えられた冷たい焼印ではなく、レオンの魔力が自分を『家族』として、あるいは『半身』として定義し直した熱だった。
「……受理完了だ、お役人」
レオンが書類をひったくるように受け取り、満足げに口角を上げた。
「――行くぞ。ここはもう安全圏じゃない」
※2026/05/20 大幅修正をしました。




