第64話:『執務机の解剖台 ー 01/22 2:00 執行開始』
第2部:執務机の解剖台
一月二十二日 二時
深夜の執務室は、月光と数枚のホログラム・ディスプレイが放つ青白い光に支配されていた。
レオンは執務机に向かい、机の上に置いたA.I.D.Aのクリスタル端末の表面を見つめている。
一度は脱ぎ捨てたミッドナイトブルーのスリーピースを身につけ、背筋を伸ばした姿は傍目からは立派なCEOに見えた。
木の扉が開くゆっくりとした音がレオンの耳朶を打つ。レオンは執務室内に防御結界を展開し、事務的に告げた。
「……時間通りだな、バルトロメ。準備はできている。始めてくれ」
「……おや。今日の君は。見かけだけは立派だね」
暗闇から現れたバルトロメの声は、鋼鉄が擦れ合うような冷たさを含んでいた。
彼は音もなくレオンの正面に立つと、カメレオン・グレーの瞳を細めた。
価値の暴落した担保物件を査定するかのような冷徹さで、レオンに刻まれた『敗北の痕跡』を検品し始める。
レオンは再構築された論理回路を盾に、冷静な視線をバルトロメに投げ返した。だが、網膜の端で明滅するA.I.D.Aの警告を、意識の外へ追いやることはできない。
視界から音もなく消えた男の気配に、背筋を這い上がるような悪寒が走った。音もなくゆっくりと背後に回り込んだバルトロメの声が、レオンの耳殻を冷たく撫でた。
「この部屋には、隠しきれない『敗北の硝煙』が充満している」
バルトロメの指先が、レオンの首筋――バルナザールが最も深く「痕跡」を刻んだ場所へ、触れるか触れないかの距離まで近づく。
物理的な接触はない。しかし、バルナザールによって『Admin権限』を蹂躙された記憶が、レオンの背筋を強制的に逆撫でした。制御を失った肩が、致命的なエラーを隠しきれずに跳ね上がる。
「……っ! ……」
「その『揺らぎ』だ。
君が今、必死に隠蔽しようとしているトラウマという名の不良債権。
……それがオスカル氏の前で露呈した瞬間、君という会社は倒産する」
バルトロメは嘲笑うように言うと、無造作に机上のオブジェクトを端へ追い払った。
A.I.D.Aのクリスタル端末が回避行動をとり、天井近くまで浮かんで微かな警告音を鳴らす。それは、主の急激な血圧上昇を告げる、無機質なノイズだった。
「隠すのが下手な子供には、別の役割を与えよう。
……その上に寝なさい」
「……っ、この机の上で?」
「今この瞬間から、これは君の『解剖台』となる」
バルトロメのカメレオン・グレーの瞳が、鏡のようにレオンの屈辱を反射する。
「CEOとしての自分を捨て、ただの『動かない資産』になりたまえ。
……さあ、早く。私の忍耐は、君の時価総額ほど安くないんだ」
抗う術はなかった。
レオンは困惑と微かな屈辱に奥歯を噛み締めながら、高級な木目の天板に、仰向けに身を横たえた。一国の経済を動かす決裁の場だったそこは、今や体温を奪うだけの冷たい板へと変貌していた。
背中に伝わる天板の冷たさは、バルナザールに熱を持たされた肌を、容赦なく「無機物」へと冷やしていく。視界に入るのは、天井の無機質な照明と、自分を家畜のように見下ろすバルトロメの冷徹な貌だけだ。
バルトロメはレオンの顎を掴み、横に向ける。バルナザールの指痕が残る項が、バルトロメの視線に晒される。
レオンは反論の論理コードを探したが、バルトロメの視線に射抜かれた思考回路は、読み取り専用の状態で固着していた。ただ、蹂躙される事実を受け入れることしか許されない。
「……その『屠殺を待つ家畜』のような眼差し。それは君の『生』が醜く叫んでいる証拠だ。
『死体』に意思は不要だ。
演技者としての君は、今、評価額ゼロのジャンク品に等しい。」
バルトロメは胸ポケットから冷たい金属製の万年筆を抜き取ると、そのキャップの先で、レオンの鎖骨のあたりをなぞるように滑らせた。バルナザールが直接触れた、あの泥のように濁った熱が残る『痕跡』の上を。
万年筆の先端が描く絶対零度の軌跡が、バルナザールに刻まれた『所有の汚濁』を物理的に凍結し、剥離させていく。 レオンの肌の上で、二つの異なる悪意が、熱と冷気の火花を散らした。
「……っ」
「怖いか? 気持ち悪いか?
レオン君、その感情はすべて無駄な『コスト』だ」
バルトロメの低い声が、呪文のようにレオンの耳元に落ちる。
「吐き気がするなら、それを『不純な排熱』として肺の奥底に閉じ込めろ。
触れられた場所から順に細胞を『貸倒引当金』として処理し、意識の台帳から消すんだ。
――今、このデスクの上で、君は『無機質な置物』になるんだ」
金属の冷たさが、バルナザールの泥のような熱を物理的に削ぎ落としていく。レオンは目を閉じ、自身の意識を台帳のように開き、そこに残るバルナザールの残滓を一行ずつ「損金」として消去していく作業に没頭した。
バルトロメは、冷酷な観察眼を一度も逸らさなかった。
「いいぞ……。呼吸を捨てろ。
心臓を『メンテナンス中の工場』のように停止させろ」
バルトロメの指が、今度はレオンの頸動脈を軽く押さえる。
「オスカル氏は、君の『反応』を喰らう寄生虫に過ぎない。
彼に、君の『反応』という名の配当を与えるな。一滴の蜜も吸わせてはいけない。
君が完璧な『無』になれば、彼は君という資産を所有しているつもりで、実は空虚な箱を掴んでいるに過ぎないのだから……」
レオンの鼓動が、急速にそのリズムを失っていく。
ヴァルプスの腕の中で感じたあの心地よい絶望とは違う。バルトロメが強いるのは、自らを「物」へと貶めることで手に入れる、究極のステルス(生存戦略)だった。
レオンの指先から、感覚が消える。
思考は明晰なまま、身体だけが灰色の石像へと変わっていく。
執務机の上に横たわるレオンの姿は、もはや生きた悪魔ではない。
それは、いかなる権力(Admin)も追跡できない、完璧に『簿外資産』へと隠蔽された死体だった。




