『公証人の屈辱と、名前の奪還』①
第1部:断頭台の打ち合わせ
「……準備は整いました」
ヴァルプスが、無機質な机に一枚のデータ・チップを置いた。そこには、レオンの叔父オスカル経由で密かに仕入れた「バルナザールの裏帳簿」を、精巧な『システムエラー』へと偽装した毒データが格納されている。
これを悪魔界の役所(ベルフェゴール局)の端末に流し込めば、バルナザールが気づく前に、ヴァルプスの所有権を書き換える「バグ」を発生させられる。
「ありがとう、ヴァルプス。
……あとは、この『毒』を正当な手続きに見せかけるための、強力な触媒が必要だ」
レオンの視線の先――窓際のソファに、淡桃色の髪を揺らし、退屈そうに黒い小瓶を弄ぶ男がいた。
その手にあるのは、レオンお気に入りの黒い液体——小瓶はいつの間にか、マルヴェイの手に握られている。
無言のまま彼が小瓶を傾けるたび、液体が光を受けて艶めき、室内に微かに香りを漂わせる——指先で空気そのものを掌握しているかのように。
レオンの安らぎの色彩が、今、マルヴェイの指先で光と香りを纏った“承認の触媒”へと変じていた。
「……ねえ、レオン。
私を呼び出したのは、その可愛らしい毒遊びの『証人』になれってことかい?」
マルヴェイが翡翠の瞳を細める。彼は悪魔ではない。だが、大魔王さえも無視できない「裏の法理」を司るエルフの異端家系だ。彼が横に立つだけで、地獄の役人はその申請を「不可侵」のものとして受理せざるを得なくなる。
「君の『署名』が必要だ、マルヴェイ。条件を言え」
「条件? ふふ、金や利権なら、もう君から十分に絞り上げているよ」
マルヴェイは音もなく立ち上がると、レオンの目の前に立ち、その顎を指先で持ち上げた。
「……今の君は、最高に美味しそうだ。理性を保とうとしながら、内側では悪魔の角を疼かせ、泥を啜ってでも『愛犬』を守ろうとしている。
さて……今回の『臨時手数料』は、そうだな。
……形に残らない、とびきりの屈辱が欲しいねぇ」
マルヴェイが顎を持ち上げたまま楽しそうな笑顔で話す。
レオンの背筋に微かな緊張が走った。
思わず肩が強張るが、視線は交わさぬよう下に落とす。
胸の奥で、理性と覚悟がせめぎ合い、血の流れが速くなるのを感じる。
「顔を見るな。
私がいいと言うまで、君は私を見上げる資格がない。
……分かるだろう?」
背後で、ヴァルプスが手に持った計測端末が、みしりと音を立てた。
数値化された彼の殺意が、レッドゾーンを突き抜け、跳ね上がる。
レオンは一瞬だけ瞳の奥に冷たい炎を宿した。
だが、その炎を閉じ込めるように、心の中で小さく声を上げた——怒りではない。
無言で片膝をつく動作は淀みなく行われたが、指先に微かな震えが残る。
理性が全てを支配していても、身体はわずかに抗う。
「レオン」
ヴァルプスの声が思わず震えた。
レオンはヴァルプスの視線を感じつつ、目を閉じる。胸の奥で、理性と覚悟が静かに衝突する。
その瞬間、世界の音がわずかに遠くなる——ただひとつ、マルヴェイの存在だけが濃密に浮かび上がった。
レオンはマルヴェイの前に深く首を垂れた。
レオンとしての誇りも、経営者としてのプライドも、全てを投げ打つ。
目は伏せられ、心の中の防御線がかすかに揺れる。
「……これで、満足か」
低く、温度のない声。
商人の冷徹さだけが瞳の奥で光った——『目的を買った』証として。
「あはは! 最高だよ、レオン!
君のその、冷えた鋼鉄のような、でも燃えるような心の匂い!」
マルヴェイは歓喜に肩を震わせ、レオンの髪を何度か丁寧に撫でつける。
角に触れようと手を伸ばすが、ぎりぎりで止める。
レオンは視線を落としたまま、わずかに眉をしかめた——怒りではない、しかし心の中の防御線は確かに揺れた。
ひとしきり笑い声をあげたあと、マルヴェイは自身の署名が入った委任状を机に強く叩きつけた。
「いいよ、貸してあげる。
私の『名前』も、『毒』も、すべてね。
……さあ、行こうか。
地獄の社畜たちが腰を抜かすような、完璧な『ハック』を見せに」
レオンはゆっくりと立ち上がり、乱れたダークスーツの襟を正す。
震えるヴァルプスの肩を一度だけ、強く掴む——その手に、理性と覚悟、そしてわずかな安堵を乗せて。
「……行くぞ。……これが、お前の『名前』の代価だ」




