『泥を啜る覚悟と、蛇との契約』④
第4部:約束のシチュー
ポータルを逆流し、外の湿った空気の中に吐き出されたとき、レオンの身体は芯から冷え切っていた。外套のポケットの中で、指先がまだ自分の意志とは無関係に細かく震えている。
「……帰らなければ」
オスカルの影が染み付いたこの身を、一刻も早く、あの優しい光の中に隠したかった。 宝石姫の邸宅へ向かう足取りは重い。だが、止まることは許されない。
「異常なし」と報告した以上、彼は完璧な「レオン・ド・ラ・ノワール」として、あの食卓に座らなければならないのだ。
玄関の扉を開けると、そこには同じ、温かな生活の匂いがあった。 だが、今のレオンには、その匂いですら刃のように鋭く鼻腔を突く。
「お帰りなさい、レオンさん! ……ずいぶん遅かったのね」
宝石姫がキッチンから顔を出す。湯気の向こうで、彼女は世界で一番無邪気な、混じり気のない笑顔を浮かべていた。
「……ああ。少し、込み入った案件だった。……待たせてすまない」
「いいのよ。ほら、約束のシチュー。
お野菜、トロトロに煮込んでおいたわ」
テーブルの中央に置かれた、温かな一皿。
レオンは冷たい水で執拗に手を洗ったあとに椅子に沈み込み、震えそうになる手でスプーンを握った。 一口、口に運ぶ。 それは、宝石姫が心を込めて作った、最高の味のはずだった。
(……味が、しない)
甘みも、塩気も、温もりも。
叔父と交わした「オプション契約」という言葉の冷たさが、レオンの味覚を一時的に麻痺させていた。しかし、あそこでああ言わなければ。
(叔父上は、他人を使うことを躊躇しない人だ。
だからこそ、私を差し出せば必ず力になってくれる)
冷徹な契約が心に影を落としながらも、レオンはただの一瞬だけでもその優しさに縋ろうと、温かいシチューを飲み下した。――失敗すれば、叔父の手によって命を引き取られることになるという重圧を胸に抱えながら。
レオンは微笑んだ――その微笑みが、どれほど空虚なものであるかを、誰も知らない。けれど、その空虚ささえも、今の彼には必要なものだった。
「美味しいよ。……こんなに温かいものは、久しぶりだ」
「ふふ、よかった。レオンさん、なんだか少し疲れて見えるわ。今日は、ゆっくり休んでね」
「ああ。そうするよ」
嘘だ。これから深夜にかけて、ヴァルプスに「現世ルートの開拓は成功した」と報告し、バルナザールを嵌めるための偽装データを構築しなければならない。
休息など、今のレオンには許されていない贅沢だった。
--
深夜。
宝石姫が眠りについた後、レオンはそっとベッドを抜け出し、リビングの窓辺に立った。 暗い街並みの向こう、地獄の塔があるはずの方向を見つめる。
ふと、端末が震えた。現世で仕事を続けているであろう、ヴァルプスからの暗号化されたメッセージ。
『心拍数が平常値より10%低い。……シチューの塩分濃度が足りませんでしたか?』
皮肉とも、気遣いとも取れるその言葉に、レオンは今夜初めて、自嘲気味な笑みを漏らした。
隠しているつもりでも、ヴァルプスにはすべてが――あるいは「何もかもが正常ではないこと」だけは、伝わっている。
(……ヴァルプス。君を騙す形になってしまったな)
レオンは窓に額を預け、冷たいガラスの感触に目を閉じた。
遠く、夜の空に北極星が瞬いている。 ヒュームが愛したあの星は、泥を啜り、魂を売った今の自分を、まだ「レオン」として照らしてくれるだろうか。
「異常なし」
レオンは独り言のように呟き、深い、深い闇の中へと、意識を沈めていった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。
※2026/05/20 大幅修正をしました。




