『泥を啜る覚悟と、蛇との契約』③
第3部:影の兵站(断頭台の会議)
魔導ポータルの青白い残光が霧散したとき、そこは色を失った世界だった。
重厚な黒檀の扉の前。左右を固めるのは、彫像のように動かないヴァレリアンと、退屈そうに爪を眺めるカイウス。
レオンは頭にかけた隠蔽魔法が悟られないことを祈りながら、そっと前髪を直した。
昔のままの姿で、叔父に会うことがいまは最適解だった。
二人の無言の圧力を背に受けながら、レオンは一歩、叔父の私室へと足を踏み入れた。
室内には、光がない。 ただ、机の向こう側に座る男――オスカルの青い瞳だけが、暗闇の中で燐光を放っている。
「それで……今回は何を持ってきた?」
叔父の声には、かつて箱庭で北極星を教えてくれた男の温度が、まるで最初から存在しなかったかのように欠落していた。
レオンは一度だけ、喉の奥で――塩気の強すぎる、あの夜のシチューの味を反芻し、感情を完全に殺した。
「Q4までに、大悪魔バルナザールの現世資産を実質ベースで三割削れます。
それを、あなたに」
理由も、復讐心も、恐怖も言わない。
提示したのは、叔父にとっての「実利」としての数字だけだ。
暗闇の中で、オスカルがわずかに身を乗り出す気配がした。
「……ほう。あの『墨鬼の主』のポートフォリオを崩すと。
……条件は?」
「一点だけ。私の現世拠点への直接介入は避けてください」
「拠点、だと? ……なぜ?」
レオンの背中に、嫌な汗が伝う。 だが、視線は逸らさない。
ここで「彼女が待っているから」と言えば、一瞬で彼女が人質になる。
「回収効率が落ちます。
私のパフォーマンス維持に必要な、最低限のインフラです――破壊すれば、こちらの動きが雑音になります」
「……インフラ、か」
オスカルは短く呟いた。 理由を言わないのが、理由。 その空白に横たわる「人間性」を、叔父は冷酷に、そして楽しむように見抜いている。
「それで、具体的な手法は。……君がやるのか?」
「市場です。正確には、バルナザールの現世資産が、外部からはそう見えるように誘導します。
Q4に入れば、それらは本人の意思とは無関係に、動かなくなる」
「凍結」とは言わない。「攻撃」とも言わない。 ただ、機能不全を事実として突きつける。
「……市場の判断、というわけだ。面白い。……だが、もし失敗したら?」
レオンは、自分の喉元に断頭台の刃が落ちる感触を覚えた。
レオンは一瞬だけ思考を巡らせた。
金銭では足りない。情報では弱い。
叔父が本当に価値を見出すのは、「成果を出すレオン・ド・ラ・ノワール」そのものだ。
ならば、担保に入れるべき資産は、最初から一つしかない。
ここが、魂の売り渡し場所だ。
「私を……回収して構いません。
私をあなた名義の『オプション』として保持してください。
……行使タイミングは、バルナザール排除後で結構です」
(これでいい。これで、バルナザールは沈む。ヴァルプスは守れる。
宝石姫、君の食卓は、私が売ったこの『骨』で買い戻す)
沈黙が、部屋を支配した。
「……惜しいな」
静かな声が響く。
「……だが。君が私のもとに、戻ってくるのなら」
やがて、暗闇の中から、乾いた革の手袋が重なるような、小さな拍手の音が聞こえた。
「……いいだろう。その契約、承認する。
不渡りを出せば、君のすべてを私が回収する」
「……問題ありません」
契約完了。
レオンは深く頭を下げ、部屋を後にした。
背後で扉が閉まった瞬間、彼は壁に手をつき、肺にあるすべての空気を吐き出した。
(……啜ったぞ。……生き延びるために、世界で一番冷たい泥を)
震える手で端末を起動する。 バイタルデータの定時送信。
定時自動送信。
『異常なし』
その四角い文字が、自分を縛る新たな鎖に見えた。
※2026/05/20 大幅修正をしました。




