第62話:『再起動のエラーログ ー 01/21 21:00 執行開始』
第8部:再起動のエラーログ
一月二十一日、二十一時
漆黒のポータルを抜けた瞬間、本社ロビーの無機質な灯りが、網膜を刺すような暴力性を持ってレオンを現実に引き戻した。
重力。酸素の重み。そして、何より自分を取り巻く「他者の視線」。
一歩、踏み出そうとした膝が、笑うように砕けかけた。
「……レオン!!」
その体躯が床に沈むより早く、待機していたヴァルプスの腕が、崩れ落ちるレオンの身体を強引に抱きとめた。
管理官の腕は、震えていた。主を一人で地獄へ送り出した六十分間、彼はロビーの隅で、自分の存在理由を全否定されるような恐怖に、肺を焼き焦がしていたのだ。
「……ああ、ヴァルプス。……戻ったよ」
レオンの声は、砂を噛んだように乾いていた。
ヴァルプスの胸元に顔を埋める形になったレオンの鼻腔に、自分が今朝まで吸っていたはずの「清浄な石鹸」の匂いが届く。だが、今のレオンの全身には、バルナザールが塗り込めた濃厚な「大悪魔の残り香」が、呪いのようにこびりついて離れない。
「……失礼します。バイタルチェックを――」
ヴァルプスの指が、焦燥に駆られてレオンの首筋に触れた。その瞬間、ヴァルプスの動きが、回路を焼き切られた機械のように硬直した。指先に伝わる、異常な熱。自分が数時間かけて磨き上げ、一滴の不純物も許さずコーティングしたはずの項の紋章の上に、「父親」という名の圧倒的な暴力が、泥のように上書き(オーバーライド)されている。
「……あ……ああ…………ッ!!」
ヴァルプスの喉から、獣のような、あるいは壊れた楽器のような悲鳴が漏れた。彼はレオンを抱きしめたまま、その項に残された「他者の指跡(熱)」を、自分の掌で狂ったように拭い始める。
「……主さま。汚されて、
……ボクの管理を、
ボクの『聖域』を、あの方が……っ!」
ヴァルプスの忠誠心が、嫉妬という名の猛毒に侵され、溶解していく。
レオンは、ヴァルプスの震える腕の中で、ただ遠い目をしてロビーの天井を見つめていた。
手の中には、バルナザールから渡された銀の名刺。
項には、バルナザールに刻まれた消えない熱。そして脳内には、昼間マルヴェイと共有したはずの飴の味が、もう思い出せないほどの「空白」が広がっている。
「……もういい、ヴァルプス。
……部屋へ、連れて行ってくれ。……すこし、休む」
レオンのその弱々しい懇願は、ヴァルプスにとって、自分への「完全な依存」を示す甘い報酬であると同時に、「自分ではあの方(父)から主を守りきれなかった」という敗北の刻印だった。
ゆっくりと近づいてきたマルヴェイが、二人を見下ろしながらわざとらしく口元に指をあてる。
「……あは、ヴァルプス。君、負けちゃったね」
マルヴェイの嘲笑が響く中、レオンの網膜の端で、A.I.D.Aのシステムログが静かに、そして容赦なく更新された。
『──警告(Warning)
マスター・レオンの精神ドメインに、大悪魔バルナザールによる「強制承認印」を検知。
……ヴァルプス管理官による既存の防御レイヤーは、98.4%が上書き(オーバライト)により消失しました』
無機質な電子音声が、ヴァルプスの耳にも届く設定の共有デバイスから流れ出す。
『現時刻をもって、管理官ヴァルプスの「独占守護権」はシステム上、一時的に無効化されます。
……マスター・レオン、直ちに再調律を推奨します。
このままでは、五時間後の「精神耐性演習」の成功確率は、3.2%まで低下します』
「……うるさい、黙りなさいA.I.D.A!!」
ヴァルプスが、レオンを抱きしめたまま悲鳴を上げる。
自分の失敗を、愛する主の脳内AIにまで「数値」で断罪される。その事実が、ヴァルプスのプライドを最後の一片まで粉砕していった。
マルヴェイは、ヴァルプスの絶望を蜜のように啜りながら、同時に周囲の護衛たちへ指先一つで不可視の結界を展開させた。
「……見せないよ。
レオンのこんな『あられもない姿』を、下俗な社員たちにさらすなんて、興行価値が下がるからね」
彼はレオンの異常値を「守る」のではなく、「自分たちだけの秘匿事項」として独占するために、冷酷な手際でロビーの視線を遮断していった。
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十二階のプライベートラウンジの寝室には、ヴァルプスが焚いた鎮静効果のある魔導香の、重苦しくも甘い匂いが充満している。
レオンは、バルナザールに蹂躙された後の凄まじい虚脱感に沈みながら、純白のシーツの上で横たわっていた。
項に刻まれた「顧問の熱」は、ヴァルプスの必死の洗浄によってようやく影を潜めたが、代わりにそこには、ヴァルプスが執拗に塗り込めた過剰な独占欲(魔力)が、新たな熱となって脈打っている。
「……レオン。
……まだ、こんなに冷たい。
ボクが、ボクがもっと、あなたを上書きしなくては……」
完璧な管理官であったはずのヴァルプスは、今やプライドをズタズタに引き裂かれ、レオンの傍らで「ぴいぴい」と、壊れた小鳥のような嗚咽を漏らしていた。
「……ヴァルプス」
レオンは、感覚の麻痺した指先を動かし、ヴァルプスの白い頬をそっと撫でた。それは慈しみというよりは、「不具合を起こしたデバイス」を一時的に宥めるための、CEOとしての事務的な処置に近かった。
「……私は、壊れていない。
……顧問に洗われたおかげで、むしろ頭は冴えているんだ。
……だから、そんな顔をするな。
……二時の演習を、完璧にこなしてくる」
バルナザールから貰った『銀の名刺』が、サイドテーブルの上で、月光を反射して冷たく光っている。
レオンは、ヴァルプスの震える肩越しに、その銀の札をじっと見つめた。
そこに刻まれた「鉄の女」の名は、次の演習への招待状であり、同時に、自分の「空っぽ」を試す最後の審判台だった。
視線を移さず、レオンは静かに息を吐く。
体の奥底にまだ残る、バルナザールの黒い熱。それでも、頭は冴えている。
次の演習まで、あと二時間――その孤独を胸に、レオンは静かに呼吸を整えた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




