『泥を啜る覚悟と、蛇との契約』②
第2部:聖域の献立
霧雨に濡れる石畳を抜け、レオンは宝石姫の住まう邸宅の前に立っていた。
ポータルを潜る前にここへ寄ったのは、未練ではない。
これは「生還するための呪い」だと、自分に言い聞かせる。
玄関の扉を開ける直前、レオンはコートの襟を正し、冷え切った両頬を手の平で強く叩いた。血色を無理やり呼び戻し、口角を数ミリ引き上げる。
「ただいま、姫」
扉を開けると、そこには地獄の硫黄の臭いも、魔王本社の無機質な空気もない、柔らかな「生活」の匂いがあった。
「あら、レオンさん! お帰りなさい。今日は少し早いのね」
エプロン姿の宝石姫が、弾むような声でキッチンから顔を出す。
彼女が纏う空気は、レオンが先ほど浴びてきたヴァルプスの鋭い視線とは対照的に、どこまでも無防備で温かい。
「……ああ。少し、大事な商談があってね。
その前に、君の顔が見たくなったんだ。終わったらすぐに戻ってくる予定だよ。
……なにも、変わったことはなかったよね?」
レオンは彼女に近づき、その華奢な肩に、汚れを移さないよう慎重に手を置いた。
思い出したように脇に挟んでいた小さなブーケを手に取り、宝石姫にそっと手渡す。
宝石姫は淡く微笑んで受け取り、胸元でブーケを抱きしめた。
「商談? また大変そうね……。大丈夫、とくに変わったことはなかったわ。
そうだ!今夜はとっておきのシチューを作るわ。
貴方の好きな、お野菜がトロトロになるまで煮込んだやつ」
シチュー。何気ない申し出がなぜか苦しい。レオンの胸の奥が傷んだ。
「シチューか。……いいな。楽しみだ」
「ふふ、お腹を空かせて帰ってきてね? 約束よ」
宝石姫が、いたずらっぽく小指を立てる。 レオンはその指を見つめ、一瞬だけ呼吸を止めた。
(……この指を、守る。その代価が、私の自由だとしても)
「ああ、約束する。必ず、腹を空かせて帰るよ」
彼女の額に、誓うように短く唇を寄せた。
彼女の肌の温もりが、冷え切ったレオンの唇に、残酷なほど鮮烈に刻まれる。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、レオンさん。頑張ってね」
背後で閉まる扉の音。 その瞬間、レオンの顔から「騎士」の仮面が剥がれ落ちた。 階段を降りる足取りは重く、だが迷いはない。
彼はポケットから端末を取り出し、ヴァレリアンが指定した座標を起動した。
(……シチューを食べるために、魂を売りにいく。……滑稽だな)
街角の影に溶け込むように、魔導ポータルの青白い光がレオンを飲み込んだ。
光が収まったとき、そこはもう、シチューの匂いなど届かない「蛇の住処」だ。
※2026/05/20 大幅修正をしました。




