第61話:『強制洗浄 ー 01/21 20:05 執行開始』
第7部:強制洗浄
一月二十一日、二十時五分
バルナザールが指先を軽く鳴らすと、何もない空間から結晶化した魔力が宙に編み上がり、一卓の硝子のテーブルが姿を現した。
脚のない、重力を無視した透明な円卓。それは食事のための什器というよりは、生体サンプルを解剖するための「手術台」のような、冷徹な清潔さを放っている。
「……座りたまえ。
今夜は君の『資産分散(身辺整理)』の捗り具合を、じっくりと味わわせてもらおうと思ってね」
バルナザールがソファに深く沈み込み、対面の席を促す。
バルナザールが腰を下ろしたソファは、沈み込むたびに「溜息」のような低い排気音を漏らした。深紅のベルベットは、まるで獲物の血で染め上げられたばかりの獣の産毛のように、レオンの視線さえも絡め取って離さない。
一度座れば、二度と現世の地を踏めなくなる――そんな、底知れぬ「重力」を孕んだ質感だった。
レオンは、眼下の夜景が網膜を焼く感覚を抑え、黒壇の椅子へと身を預けた。テーブルの上には、レオンのバイタルデータを読み取ったかのように、「今、彼が最も消化に苦労しそうな、重厚な赤ワイン」と、「冷たくて硬い前菜」が音もなくサーブされる。
「……おや。ヴァルプスが、随分と丁寧に君の『味覚』を書き換えたようだが。
……私の用意したこの『毒』は、君の潔癖な回路に合うかな?」
バルナザールが、レオンのグラスに濃紅色の液体を注ぐ。レオンは、その香りに混ざる「圧倒的な魔力の重圧」に眩暈を覚えながらも、震える指先でグラスを手に取った。
「……顧問の選定に、異論を挟む余地はありません」
レオンがグラスの中の毒を一度だけ見つめる。
「……いただきます」
給仕さえ存在しない。ただ、空間の熱を奪うように現れた冷たい前菜が、二人の間に横たわっている。バルナザールは、自身の手を動かそうとはしなかった。ただ、組んだ長い脚の上に肘をつき、指先を絡めて、金の瞳でじっとレオンを「視て」いた。
沈黙。
レオンの主観では、自分の資産価値を再評価されるための永遠にも等しい停滞だった。レオンの影の端にこびりついた、マルヴェイによる「不純な同期(熱)」の跡。ヴァルプスが数時間かけて塗り固めた、執念にも似た「清浄な香水」の層。それらを、バルナザールは指先で一つ一つ剥がすように、あるいは傷口を愛でるように確認していく。
「……なるほど。そういう選択(同期)をしたか」
長い沈黙の末、バルナザールが最初に発したのは、感嘆とも呆れともつかない、重く湿った言葉だった。
「マルヴェイの同期ノード……。
ヴァルプスとの契約深度の変更。
……レオンくん。君は自分のドメインをずいぶんと賑やかにしたね。
不純物を混ぜて、自分の『真実』を薄めようとしているのかい?」
「……リスク分散の結果です。顧問」
レオンは、震えそうになる喉の筋肉を鉄の意志で抑え込み、事務的なトーンを保って応えた。だが、バルナザールは怒らなかった。むしろ、獲物が期待通りの「歪み」を見せたことを喜ぶ捕食者のように、慈しみ深く目を細めたのだ。
「いいよ。怒りはしない。
……むしろ安心した。君のその『味』が、まだ誰にも汚されず、純粋なまま熟成されている。
……君はまだ、壊れていないね」
その言葉は、レオンにとって死刑宣告に近い確認だった。
「まだ利用価値がある(アセットとして機能している)」と、この化け物に太鼓判を押されたのだ。
「……光栄です」
レオンは、運ばれてきた「冷たくて硬い何か」を口に運んだ。味がしない。ただ、バルナザールの視線が、自分が咀嚼するたびに喉元を這い回る感覚だけが、生々しく脳を焼いていた。
現世でのビジネス上の立場は「雇用主と顧問」であり、レオンが勝利して資産を凍結させた「債権者」である。しかし、悪魔界、悪魔の種族の格としては「上位種(大悪魔)」であり、さらに息子ヴァルプスとの「契約書」の不可逆な承認者でもある。
実務では勝てていても、魂の契約と種族の血では抗えない。それが、レオンをひどく緊張させていた。
食後の冷たい静寂。バルナザールが不意に、テーブルを隔てた距離をゼロにした。 二メートルの巨躯が、獲物を覆い隠す巨大な影となってレオンにのしかかる。
「……顧問?」
レオンが息を呑むより早く、バルナザールの熱い指先が、冷たく磨き上げられたシャツの襟元を割り、項の肌へと滑り込んだ。
バルナザールの黒い指先が、レオンの項にある青い紋章をなぞる。そこは、ヴァルプスとの「契約」の全権が書き込まれたログインポートであり、バルナザール自身がその成立を承認した、いわば彼自身が封印を施した扉だ。
「ヴァルプスとの契約書は、今日も堅牢に機能しているようだね。
私が承認したこの『束縛』は、いかなるハッキングも、自己破産による免責も許さない。
……死が分かつまで、君の所有権は揺るがないよ」
バルナザールの低い笑いが、レオンの耳元で地響きのように鳴った。レオンの項の皮膚を直接震わせる。この至近距離で放たれる「大悪魔の原初の魔圧」の前で、レオンは逃げ出すことができなかった。
ヴァルプスが誂えてくれたスーツの防御魔法はたやすく破かれていく。
「……顧問。
……契約外の干渉は、規約違反……です」
レオンは努めて冷静な顔つきで、バルナザールを見上げた。いや、見上げるしかなかった。
黒い指先が、レオンの項に刻まれた「管理者(管理者権限)」を示す青い紋章を、じわり、と押し潰すように圧迫する。
「規約?
……ああ、十二月のあの日に君が差し出した、小賢しい『雇用契約書』のことかな。
……レオン君。私が君の提示した条件(敗北)を飲んだのは、君という資産を、誰にも邪魔されずに最も近くで観測(独占)する権利を買ったからだよ」
バルナザールの指先に、黒い熱が灯る。やがて黒い火花が散った。それは、昼間にマルヴェイと共有した「不純な同期」の残滓を、大悪魔の格の暴力で焼き払う、残酷な「洗浄」だった。
「……っ……、ぁ……っ!」
レオンの背筋を、暴力的なまでの魔力の奔流が駆け抜ける。あまりの刺激の強さに、レオンは自分を引き寄せるバルナザールの腕を掴み、身体を仰け反らせる。
バルナザールは、レオンを抱き寄せた。指先から流し込む圧倒的な「格差」によって、レオンの自我をその基底部分から支配下に置き直していく。
「……あ、……ぁ…………」
レオンの視界が白濁し、『致命的な外部干渉』を叫びながらクラッシュする。マルヴェイと共有していたあの「いたずらな甘み」も、ヴァルプスの「潔癖な安心感」も、バルナザールの濃厚で重苦しい魔力によって、炭化され、消失していく。
「……いいよ、レオン。
現世では経営者として私を飼っているつもりでいたまえ。
……だが、君の項に刻まれたこの『契約の承認印』だけは、私以外には消せない。
……息子にさえ、触れさせはしないよ」
数分後、バルナザールがゆっくりと指を引き抜いた。レオンは、自分の魂の輪郭が強引に拡張され、中身をすべて「大悪魔の黒(魔力)」で洗われたような、形容しがたい虚脱感に襲われた。項に残るのは、自分の脈動を上書きする、バルナザールの重苦しい鼓動の余韻。
「……ご苦労様。
これでようやく、君は『清潔な商品』に戻った。
……さあ、顔を上げなさい」
バルナザールの金の瞳が、満足げに細められる。
「……う、……うぅ……」
レオンは、震える膝を必死に抑え、剥き出しになった魂をかき集めるように、再び「CEOの仮面」を、今度は血の滲むような思いで被り直さなければならなかった。震える指先で、レオンは乱れたシャツの襟を、這いずるような手つきで整える。レオンの身体には、ヴァルプスの調律でもマルヴェイの浸食でもない、「バルナザールに検品された」という消えない烙印(熱)だけが、どろりと沈殿していた。
「……ありがとうございます。……顧問。
……おかげで、回路が『清浄』になりました」
屈辱をロジック(正当性)の裏側に押し殺し、レオンは枯れた声で礼を口にした。
バルナザールはその「敗北の味」を愉悦とともに啜り、満足げに目を細める。
「いいよ。
君の手元に一点の『迷い(ノイズ)』も残っていることは、私の検品ミスになるからね。
……これは保険だ。受け取りたまえ」
バルナザールが指先で弾いたのは、銀の縁取りがなされた、一枚の硬質な名刺だった。
硝子の円卓の上を滑り、レオンの指先にピタリと止まる。
「……これは?」
「魔界契約の解釈から、存在そのものの凍結までを裏で操る、『禁忌の弁護士』だ。
私ですら一度敗訴させられた、法の化身……『鉄の女』だ。一度会ってみるといい。
……貸しなどと思わないでいいよ」
レオンは、震える手でその銀の名刺を握りしめた。
「……失礼します」
再び顕現した漆黒のポータルへと、レオンは逃げるように足を踏み出す。
背後で、氷がグラスに当たる「カラン」という乾いた音が、静寂のケージの中に、不吉な祝杯のように響き渡った。




