『泥を啜る覚悟と、蛇との契約』①
第1部:冷めたメイプルシロップ
その朝は、窓を叩く霧雨とともに始まった。
現世のオフィスを兼ねたレオンの居室は、空調によって常に二十二度に保たれているはずだが、今朝のレオンには、その空気が氷のように冷たく感じられた。
「……あなたが、メイプルシロップを多めに、とのリクエストでしたので」
ヴァルプスが、音もなくパンケーキの皿をテーブルに置いた。
立ち昇る湯気と、暴力的なまでに甘い香りが部屋に広がる。普段なら、この香りはレオンにとっての「凪」への入り口だった。しかし、今の彼の喉を通り抜けるのは、鉛のような重い沈黙だけだ。
数秒の後、レオンは無言でフォークを手に取った。
指先が微かに震えているのを、テーブルクロスの陰に隠す。
「……ヴァルプス。今日の定時監査だが、内容を変更する」
パンケーキを一口、無理やり飲み込み、レオンは努めて平坦な声を出した。
唇に残るシロップの甘さが、言葉の立ち上がりを、わずかに鈍らせた。
「これから単独で、現世の特殊資産ルートの開拓に向かう。
……座標の追跡は一切禁止だ。これは社長命令だ。いいね」
ヴァルプスの動きが、止まった。
赤い瞳が、レオンの伏せられた瞼を、そして隠しきれない頸動脈の激しい鼓動を、冷徹なデータとしてスキャンしていく。
「……単独で、ですか。オスカル様の領域へ?」
「なぜ分かった」とは言わない。言えば、それが正解だと認めることになる。
「リスク管理だ。地獄の管理官(君)の魔力波形は目立つ。
バルナザールの監視網に引っかかる可能性をゼロにしたい。
……論理的な判断だ」
「論理的、ですか」
ヴァルプスが一歩、近づく。 その影がレオンの皿に落ちた。
「今の貴方の心拍数は、最大負荷時の85%に達しています。
魔力波形は乱れ、指先の体温は平常時より2度低い。
……この数値を『平常』としてログに残せと、貴方はボクに命じるのですか、レオン」
ヴァルプスの声は静かだが、その裏には「管理官」としての意地と、剥き出しの懸念が混じっていた。 レオンは、フォークを皿に置いた。カチン、と硬い音が無機質な部屋に響く。
「……そうだ。これは『異常なし』として処理してほしい。
ヴァルプス、君に守られた『エルフの標本』でいる時間は、もう終わった。
私ができることを、してこよう」
レオンは立ち上がり、背を向けたままコートを羽織る。
ポケットの中の端末が一度、短く震えた。 ヴァレリアン――叔父の双蛇の片割れからの、ポータル座標の着信通知だった。
「行かなくても良い、とボクが言ったら」
「……すまない」
「十八時までにバイタルが途絶えたら、独断で緊急回収に移行します」
背後から届いたヴァルプスの声は、もはや執事のものではなく、獲物を待つ捕食者のように低かった。
「……わかった」
レオンは一度も振り返らず、部屋の扉を開けた。
メイプルの甘い香りが、一瞬で廊下の冷たい風に掻き消される。
これから向かうのは、パンケーキの味など一瞬で忘れるような、汚泥と影の世界だ。
(……すまない、ヴァルプス。
君を連れて行けば、君の自由まで叔父上のコレクションに並べられてしまう)
レオンは強く手を握る。
(数字は積み上げた。
利益も、ルートも、現世資産も。
だが、バルナザールを打ち負かすには、まだ材料が足りない。
契約には常に、「失敗した時に何を差し出すか」が必要になる)
エレベーターの鏡に映る自分の顔は無表情で、そして――既に悪魔の「角」が、皮膚の下で疼いているようだった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。




