『氷闇の経営者』②
第2部:訪問者と虚数の刃
事務所の扉が遠慮のない音を立ててノックされた。
ヴァルプスの肩がわずかに跳ね、赤い瞳が泳ぐ。
レオンは無造作にサングラスをかけ、その変化を完璧にビジネスマンの仮面の裏に隠した。
「……時間通りだな。
ヴァルプス、最高級の、だが最も『冷めた』紅茶を淹れてこい。
客人は温かい歓迎を期待していない」
レオンの応えを待たず、扉が開く。
静かな気配の中、バルナザール専務直属の監査官──ガブリエル・バロウが、一歩足を踏み入れた。
百年ほど前。レオンが騎士団にいた頃の後輩であり、今は魔王本社に魂を売ったハーフエルフの男だ。
自然への畏敬を捨て、規則と数字への盲従に変えた冷酷な顔つきだ。
サングラス越しでも、彼の視線は確かにレオンを捕らえていた。
真っ白な手袋で机の角をなぞりながら、鼻を鳴らす。
その動作には、数秒の間を置いた微妙な「観察」の時間が含まれている。
やがて低く、しかし鋭い声が室内に響いた。
「……埃が目立ちますね。
騎士団時代の貴方の剣筋は、もっと美しかった。
……今のあなたは、痩せた、ただの『角の生えた醜い汚点』です。
魔王本社の役員会は、あなたの早期償却(殺害)を全会一致で検討しているそうですよ」
サングラスの奥、レオンは見抜く。
かつて自分が導いた真っ直ぐな黒い瞳は、いまや冷たい数字しか映さない機械と化していた。
それでも、レオンの内心には、昔の自分を一瞬だけ呼び起こす何かが残っている──折れても戻るはずだった剣のような、信じた誇りの名残。
「……償却、か。語彙が随分と貧相になったな、バロウ。
お前がマニュアルを暗記している間に、私はこの身体で、お前の主人が一生かかっても稼げない『実益』を積み上げたんだが」
「……偽証発言ですか」
「いいや?
ヴァルプス、Q3の監査用データを出せ。
かつての後輩君に、真の市場価値を教えてやる」
ヴァルプスの震える手で差し出された報告書――地獄の公用語で綴られたページの裏には、現世の投資ファンドとしての圧倒的運用実績、320%の数字が隠されていた。
ガブリエルは白手袋の指を震わせながら、数字を凝視する。
「……320%……。馬鹿な……。
こんな数字、現世の経済をハックしなければ不可能です!
あなたは一体、どれほどの人間を地獄へ送ったのですか!?」
「カモ? 心外だな。
私はただ、彼らの『強欲』を適切にポートフォリオに組み込んだだけだ。
……バロウ、お前が信じる『騎士の誇り』では、一人の悪魔の命すら買い戻せないだろう?」
レオンはガブリエルの耳元で、溜息のように言葉を紡いだ。
わざとゆっくりと、自らの側頭部をガブリエルの視線の先へと傾ける。
ガブリエルが「汚物」と呼んだその隆起は、至近距離で見れば見るほど、恐ろしいほどの機能美を湛えている。
「……見てごらん、ガブリエル。
お前の主人が後生大事に抱えている古臭い魔道具よりも、ずっと洗練されているだろう? 表面のこの滑らかさ……。
これは私の魔力が一滴の淀みもなく循環している証拠だ」
レオンは黒い爪の先で、角の表面を「チッ」と軽く弾いた。
硬質な、けれどどこか温かみのある、上質なクリスタルを叩いたような澄んだ音が室内に響く。
「……! な、何を……」
ガブリエルはその角を視界に捉えた瞬間、無意識に背筋が凍るのを感じた。
理性では否定しても、心の奥底で──かつての尊敬を通り越した畏怖と嫌悪が渦巻いている。
「お前には『屑』に見えるかもしれないが、これのおかげで私は、地獄の湿った空気の中に混じる『現世の欲望』を1ミリ秒のラグもなく受信できる。
……お前がマニュアルのページを捲るその指の震えさえ、私にはデジタルデータとして検収できているのさ」
レオンはガブリエルの頬を、角の先端が掠めるか掠めないかの距離でなぞる。黒曜石の角は、柔らか な黒髪に馴染みながらも光の加減で内側に秘めた魔力の燐光を明滅させた。
「……攻撃的ではなく、むしろ装飾的だろう?
……だが、その柔軟な弾力こそが、お前たちの放つ『古い倫理観』という名のノイズをすべて受け流してくれる。
……美しいとは思わないか? 私というシステムを完成させるための、最後のピースだ」
レオンは満足げに身を引くと、再び椅子に深く腰掛けた。
「……おやおや……あまりの美しさに、言葉も出ないか。
……いいから、その震える足でさっさと帰れ。
お前の『機能不全な目』では、この価値を正しく査定することはできないようだからな」
※2026/05/20 大幅修正をしました。




