第55話:『資産検品 ー 01/21 8:50 執行開始』
第1部:資産検品
一月二十一日 八時五十分
レオンは事務所の十二階に四日籠もり、嗅覚は「家」の匂いを忘却しつつあった。
朝日は防弾仕様の強化硝子を透過し、レオンの肌を無機質に照らす。
外の金融街には、獲物を求める飢えた群れのような喧騒が溢れているはずだが、ここにあるのは空調が吐き出す、濾過され尽くした「清浄な死」のような静寂だけだ。
「レオン。すこし、動かないでください」
鏡の前に立つレオンの背後から、ヴァルプスの声が届く。
十七日から一度も解いていないのではないか――そんな錯覚すら覚えるシルクが、レオンの首を這う。
ヴァルプスはレオンの首筋に指を滑らせ、ネクタイのそのわずかな「傾き(エラー)」を修正する。それは慈しみというよりは、ショールームの展示品のタグを直す手つきに近い。
レオンの網膜には、A.I.D.Aが投影する「商談資料」の魔導数式が青白く明滅している。
レオンは、ヴァルプスに首を預けたまま、数字の海を泳ぎ続ける。
今のレオンにとって、呼吸することと演算することは、もはや同義だった。
「本日のカフェイン摂取許容量です。昨日より糖分を2%上乗せしました」
ヴァルプスが、レオンのバイタルから逆算された「補給物資」――ボーンチャイナのカップを差し出す。
指先が触れる。完璧な温度。完璧なタイミング。それを口に含もうとした瞬間、視界の端で魔導端末に通知音が届いた。
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件名:【Approved】定時報告の免却、および現物監査の執行について
おはよう、レオンくん。
今朝の九時は、無機質なログ(報告書)は不要だ。
文字の羅列では、昨夜、君のドメイン(精神領域)で生じたあの甘美な『揺らぎ』を、十分に説明しきれないはずだ。
今夜二十時、金融街上空の『オブザーバトリー・ケージ』を確保した。
添付したポータルキーは既にアクティベート済みだ。君に『拒否権』という無駄な演算リソースを割かせないための配慮だよ。
月光の下で、君という資産の『真贋』をじっくりと検品させてもらおう。
――逃げ場のない檻の中で、君の沈黙がどれほど芳醇で硬いか。その賞味期限を確かめるのを楽しみにしているよ。
顧問 バルナザール
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「……顧問(お父様)は、相変わらず他人のポートフォリオを荒らすのがお好きのようだ」
最高級の豆の香りを一度吸い、レオンはそっとカップを皿の上に戻す。
レオンの背後で、ヴァルプスの視線が鋭利なメスのようにレオンの網膜投影を「検知」したのが分かった。
「ヴァルプス。
今夜二十時の私の『所有権』に、顧問からの優先割り込み(オーバーライド)が入った。
スケジュールを修正し、各フロアへ通達を」
ヴァルプスはレオンの背後から動かず、ただ、カップを置いた皿が微かに「カチリ」と鳴る音だけが室内に響く。
レオンの首筋に触れたままの指先が、ほんの一瞬、絞めるような力で強まる。
「……ヴァルプス。
今夜の件は、君が懸念しているような『私的な接触』ではない」
ヴァルプスの手が、レオンの襟元で微かに震えている。それは愛する資産を奪われることへの根源的な怒りのような熱が含まれていた。
「バルナザール顧問は、昨日のドメインの乱れを口実に、『抜き打ち監査』を仕掛けてきた。
ここで私が拒絶すれば、彼は顧問権限を行使して、君の管理領域を……私のプライバシーを、さらに深く暴き立てるだろう」
ヴァルプスの喉が、低く鳴った。
彼にとって、レオンの内側は彼だけが整理・整頓を許された「聖域」だ。やっと許可を許したマルヴェイはまだしも、そこにバルナザールという存在が土足で踏み入ることは、死よりも耐え難い屈辱であった。
「君の作り上げた『完璧な管理ログ』を、あのような男に汚させたくはない。
……だから今夜、私というデコイを空の上へ放り込む。
敵の目を私に釘付けにするための、実務的な陽動だ」
レオンはヴァルプスの手に自分の手を重ね、冷たい指先を包み込む。
「……いいね?ヴァルプス」
それは甘い懇願の声をした、残酷な業務命令だった。
ヴァルプスは、しばしの沈黙の後、瞳を伏せ、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。
顧問による『損害評価』が不当に高く見積もられ、あなたの資産価値を損ねぬよう、地下を含むバックアップの準備を強化しておきます」
その声には、主への忠誠と、自分を出し抜いたバルナザールへの言いようのない不満があった。
九時を告げる電子音が鳴る。「経営者」という名の歯車が、今日もまた、軋みを上げながら回転を始めた。




