第53話:『専属契約の更新 ー 01/20 13:45 執行開始』
第3部:専属契約の更新
一月二十日 十三時四十五分
会議は予定通り三十分で終了した。
魔導昇降機に乗りこんだ瞬間、周囲の雑音は遮断され、レオンとヴァルプスは重厚な金属の箱の中に閉じ込められる。
上昇する加速感とともに、レオンの網膜に「最上階まであと十五秒」のカウントダウンが表示される。
昇降機内の無機質な灯りが、ヴァルプスの銀髪を刺すような白さで照らし出す。ヴァルプスはレオンを見ず、ただ前方の鏡面仕上げの壁を凝視していた。
鏡に映るヴァルプスの瞳が、感情を削ぎ落とした「紅」に変貌している。その色に、レオンは震えを隠すために自身の手を握りしめた。
執務室に到着し、重厚な木製の扉が施錠される。
レオンが口を開くより速く、ヴァルプスがレオンを壁に押しつけた。
高級な壁紙とレオンのスーツの背中が擦れる音が静寂に響く。
自分が「人目」を盾にしたことが、ヴァルプスをここまで「正気(狂気)」に引き戻してしまったという事実に、レオンの喉が凍りついた。
「レオン。
あんな場所で、ボクを「マズル(口輪)」で縛って、別の男を「私物」に加えた。
……ボクがどれほどの屈辱を飲み込んだか、その演算(理解)すら放棄されたのですか」
ヴァルプスの白い右手がレオンの首もとに伸びる。
レオンは、自分の喉元にゆっくりと絡んでくるヴァルプスの指先の感触を感じながら、時間をかけて言葉を紡いだ。
「……ヴァルプス。聞きなさい。
第二契約(1魔貨)の優先順位は、微塵も動いていない。
君は私の唯一の『管理官』だ」
ヴァルプスの激情の瞳の揺れが、わずかに収まる。
「だが、君の『優しさ』はあまりに純粋すぎて、
私の精神負荷をすべて君一人へ集中させてしまう。
……私は君に感情を向けるたび、その過負荷が君を焼き切るのを知りながら、止めることができなかった」
レオンは自分の首を静かに締めるヴァルプスの手に自分の右手を添えて、ほんのすこし力を乗せた。
「彼は設備だ。
君を守るための。
……代わりではない。
だからこそ、今こうして君に触れられる」
レオンの左手の指先が、ヴァルプスの唇をゆっくりとなぞる。それは事務的な検収ではなく、一人の男としての、剥き出しの「前払い」だった。
「……私は、触れたい」
ヴァルプスの指が動く。レオンの首を締める力が、ほんの少し強まる。
「ボクが壊れると決めるのは、レオンではありません。
これは、明らかな『善管注意義務違反』です。
そんな言い訳で、ボクが納得するとお思いですか?」
ヴァルプスは、管理官としての最後の矜持(理屈)を振り絞る。
それに対し、レオンは視線を逸らさなかった。
声色も変えず、ただ事実のように告げる。
「違反だ。
……だが、正しくあろうとすれば、私は一生君に触れられなかった」
「……あなたは本当に、救いようのない『強欲な運用者』だ」
ヴァルプスの声は、呪いを込めるように低い。レオンの鼓膜には、どんな咆哮よりも鋭く突き刺さった。
レオンはヴァルプスのシャツの襟元を左手で握りしめる。何度か布地を引っ張り、微動だにしないヴァルプスを、ただ真っ直ぐに見上げた。
ヴァルプスがレオンの首にかけた手の力を緩めると、レオンは右手も添えて、ヴァルプスのシャツを引き寄せた。
レオンは、ヴァルプスの唇に自分の唇を重ねた。
一度離れて、角度を変えて、もう一度。
ヴァルプスが慈しむように手入れを続けてきた主の唇が、今度は奪う側として、ケアをしていた本人に柔らかく触れ、また離れる。
レオンの額には、隠しきれない緊張の汗が薄く滲んでいた。
「……以上だ」
レオンは掠れた声でそう告げると、そのままヴァルプスの胸元に額を預け、しがみついた。
その瞬間、ヴァルプスは理解した。
主の中に、まだ自分だけが触れられる脆弱性が残っていることを。
それはヴァルプスにとって、どんな契約書よりも重く、慈悲深い「専属契約の更新」の証だった。
「いいでしょう。
掃除機の導入は認めます。
ただし、あなたの『中身』は、一滴残らずボクのものですからね」
「……ああ」
ヴァルプスが、レオンに向かってほんのわずかに腕を回しかけた、その時。
執務机の端で、微細な振動が走った。
短い電子音に、レオンのまぶたがわずかに揺れる。
網膜の裏に表示されたのは――演算効率低下。応答遅延、0.37秒。
ヴァルプスは冷ややかな視線を机へ流した。
「……空気が読めない」
「いや。読んでいる」
レオンは、ゆっくりと体を離す。
魔力充電器に鎮座する青い正八面体に視線を投げた。
「……君も、拗ねるのか。A.I.D.A」




