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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:オスカル最終承認編】Q1

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第52話:『仕様変更のアナウンス ー 01/20 12:30 執行開始』

第2部:仕様変更のアナウンス


 一月二十日 十二時三十分


 ド・ラ・ノワール事務所、一階。


 全面ガラス張りの社員食堂「ラ・フォンテーヌ」は、冬の澄んだ陽光を浴びて、眩いほどの活気に満ちていた。

 焼きたてのパンの香りと、二百人程度の社員たちの和やかな談笑。

 アップテンポなジャズのBGMが食堂には流れ、壁に設置された巨大な魔電光掲示板が世界情勢を伝えていた。

 

 福利厚生の象徴であるこの場所は、レオンが守り抜いている「日常」そのものだった。


 レオンはすれ違う社員に優しげな微笑みをかけ、丁寧に受け答えを済ませていく。家族の様子を聞いて親指を立てるその姿は、洗練された実業家にしか見えない。


「レオン。今日の顔色は、今年一番良いですね」


 窓辺の席に座ったレオンの机の前に、ヴァルプスはポタージュスープの入ったカップを置き、満足げに目を細めた。

 十四日の1魔貨契約、そして十五日の「アーカイブ共有」以来、ヴァルプスはレオンにとって自分が唯一無二の理解者であるという全能感に満たされている。彼は、レオンの隣に座り、主の指先を慈しむように見つめた。


 ヴァルプスが差し出したスプーン。それを、レオンは静かに手で遮った。

 レオンはスープを一口も啜らず、事務的な動作でナプキンを手に取る。

 レオンの青い瞳は深夜のアーカイブ室の冷気をそのまま持ってきたかのように、透き通って凪いでいた。


「……ヴァルプス。

 君に報告しておくべき、システム上の『仕様変更』がある。

 ……マルヴェイを、私の『常駐型・同期ノード』として承認した」


 その言葉が落ちた瞬間、食堂を包んでいた多幸感あふれる喧騒が、まるで真空に吸い込まれたように消えた。


 数メートル離れた席でエッグベネディクトを口に運んでいた若手アナリストの手が、凍りついたように止まる。

 周囲の社員たちは、本能的に察知していた。

 今、この光景を直視することは、ド・ラ・ノワール家における「致命的な内部情報」に触れることと同義だと。

 彼らは一斉に視線を皿へと落とし、カチャカチャと銀食器の音だけを響かせ始める。その音は、まるで自分たちの心臓の鼓動を誤魔化すための、必死の偽装工作ダミーログのようだった。

 明るいBGMが流れる中、レオンのテーブルの周りだけが、世界から切り離された「処刑場」のような静寂に包まれていた。


「昨夜の精神訓練は、目標値を上回る成果で完了した。

 ……マルヴェイを、私の『常駐型・同期ノード』として承認アプルーブしたからだ。

 今この瞬間も、私のバイタルと精神負荷の五割は、彼へと常時転送バイパスされている」


 ヴァルプスは赤い瞳を揺らし、それから信じられないものを見るようにレオンを射抜いた。


「……何を……? マルヴェイを、承認した……?

 ボクの許可なく、あんな毒虫に……あなたの内側、精神の深淵を差し出したというのですか?」


「ああ。君の管理下では、私が欲しい戦力を蓄えられないと判断したからだ。

 ……効率が悪すぎる」


「レオン……っ!

 ボクがどれだけ……!

 君を傷つけないように、どれほどの『優しさ』で、君を守ってきたと思っているんですか!」


 ヴァルプスが立ち上がり、椅子が床を鳴らす。周囲の社員たちが、驚いて一斉に肩を跳ねさせた。


 カラン、と。

 誰かがスプーンを床に落とした。

 その音が、静まり返った食堂に銃声のように響く。

 落とした社員は、顔を真っ青にして、這いつくばるようにスプーンを拾い、逃げるように席を立った。

 同時に、四方の席から黒いスーツの男たちが音もなく立ち上がる。彼らは一般社員の肩を叩き、「……新システムの負荷テストです。気にせず、食事を続けてください」と、感情の死んだ声で囁いて食堂の中を歩きはじめた。

 ヴァルプスの背後で、観葉植物の葉が彼の漏れ出した魔圧によって一瞬で黒く枯れ落ちる。


「……レオン」


 ヴァルプスの声は、震えていた。それは怒りか、あるいは絶望か。

 レオンは揺るがない。彼は椅子に深く背を預け、悲痛なほど真剣な眼差しで口を開いた。


「……ヴァルプス。

 君の『優しさ』は、私を甘やかし、共倒れにさせるリスクを伴う。

 経営者として、単一の管理者への依存は致命的なエラーだ」


 レオンは静かに言葉を続けた。


「私の『責任』は、君に憎まれてでも、ここの全員をこの泥沼で生き残らせることだ。

 ……君という安寧を汚さないために、私はマルヴェイを選んだ。

 理解してくれとは言わない。だが、これがアメリアという資産を守るための、この世界を進めるための唯一の最適解だ」


 陽光の下、レオンの言葉は残酷なほど「正論」として響いた。

 守ろうとしたその手から、主の魂が別の地獄へと繋がってしまった。

 ヴァルプスは、震える拳を握りしめ、明るい食堂の真ん中で、深い絶望の淵に突き落とされた。


 軽やかな足音が近づいてくる。


「……おや、随分とにぎやかですね。管理官殿」


 マルヴェイだ。彼は、石のように固まっている一般社員たちの横をすり抜け、当然のようにレオンの隣の椅子を引いた。手には、この場に似つかわしくない甘ったるい香りのキャラメルマキアートを携えている。


「……あ、ヴァルプスさん。

 そのスープ、冷めると『同期効率』が落ちますから、私が代わりに下げておきましょうか?」


 マルヴェイが薄く微笑みながら手を伸ばした瞬間、食堂のBGMである軽快なジャズが、ヴァルプスの魔圧に耐えきれず「ブツッ」と不快なノイズを残して途切れた。


「……っ、触れるな……! 汚らわしい……!!」


 ヴァルプスの拳が震え、白い大理石の机に微かな亀裂が入る。


 驚いたような様子で口元に指を当てるマルヴェイの爪先は、レオンと同じ、黒い光沢を帯びていた。

 ヴァルプスはその爪の色合いを見て、戦慄と共に理解する。マルヴェイもまた、レオンと同じ「階層」へ引き上げられたのだと。


 悪魔同士は、牙を剥けない。

 同一組織ドメインに属する個体間での『致命的生存干渉リーサル・インターフェース』は、規約によって演算段階で棄却される。ヴァルプスがどれほどマルヴェイを噛み殺そうと望んでも、その指先が「命の核心」へ届く直前、システムの安全装置セーフティが強制的に筋肉を凍りつかせるのだ。


 マルヴェイはそれを見越して、逃げなかった。

 怒りに震え、今にもこの「平和」を粉砕しそうなヴァルプスの赤い瞳を、彼は安全圏から眺めるように、真っ直ぐに見つめ返した。


 ヴァルプスは周囲にいる二百人の社員――主が「守るべき」と定義した資産――の視線を思い出し、かろうじて魔力の爆発を食い止めた。

 ヴァルプスの理性が細い糸のごとく繋ぎ止められている。レオンはその隙を見逃さなかった。椅子を引き、立ち上がる。

 レオンは周囲の視線を一瞥し、動かないヴァルプスの耳元へ、吐息が触れるほど顔を寄せた。


「……ヴァルプス。君が私を『所有』することにこれほど執着するなら、先に前払いを済ませておこうか?」


レオンの指先が、ヴァルプスの唇をそっとなぞる。それから、左の耳朶を軽くつねり、吐息を吹きかける。


「……続きは、執務室で。

 ……会議の後にまた話しあおう」


「……っ」


 ヴァルプスの喉から、押し殺した喘ぎが漏れる。


 マルヴェイは静かに目を細めた。

 レオンの指が触れた瞬間に生じた、彼の心拍のわずかな乱れ。その負荷は、同期ノードであるマルヴェイの内側に甘いノイズとして流れ込む。

 嫉妬はない。ただ、この歪な均衡が生む演算値を愉しむだけだ。


 レオンが離れると、ヴァルプスは喉の奥で震える吐息を飲み込み、ようやく管理官としての仮面を拾い上げた。

 レオンは思い出したように冷めかけたスープの入ったカップを手に取り、顔を傾けて飲み干す。

 食器の返却口にトレイを置いて颯爽と立ち去るレオンを追いかけるように、ヴァルプスがジト目で追随した。


 食堂の四隅に散っていた黒スーツの男たちが、無言で腕時計を叩く。


「十二時五十五分。休憩終了間近。全員、そろそろ持ち場に戻りなさい」


 業務命令が落ちる。


 二百の数を超える社員たちは一斉に立ち上がった。

 数秒前の光景など、最初から存在しなかったかのように。

 トレイが重なり、足音が揃い、視線は前だけを向く。

 陽光とパンの香りの中、整然とした行進が出口へと吸い込まれていく。

 食堂に残っている社員は、マルヴェイただひとり。


 途切れていたジャズが再開する。

 ド・ラ・ノワール事務所の「日常」は、何もなかった顔で回り続ける。

 その歯車の奥で、ヴァルプスの絶望だけが静かに軋んでいた。



※以下は当日未明、ド・ラ・ノワール事務所内で一時的に作成された内部ログである。

現在は物理削除済み。


ド・ラ・ノワール事務所:極秘Slackログ

チャンネル名: #tmp_survival_jan20(本日限定・自動消去設定)


13:12 [法務B]

会議室の防音壁にヒビが入ったって報告が来てる。

修繕費の勘定項目どうすんだよこれ。

「主上の情事(同期)に伴う衝撃波」で通るか?


13:15 [インフラC]

無理だろ。それよりA.I.D.Aのレスポンスが0.4秒も遅延してるぞ。

これ明らかに「上層部の痴話喧嘩」に演算資源を割かれて拗ねてるだろ。


13:22 [アナリストA]

やめろ、深掘りするな。ログを追跡されたら俺たちの資産価値がゼロになる。

とにかく今日は12階(執務室)に近づくな。

レオン様が「前払い」の清算中(意味深)だから、死ぬぞ。


15:50 [新人E]

あの……トイレで吐いてた僕に、レオン様が「無理をするな、君の代わりはいない」って飴をくれました。

……この会社、やっぱり天国ですよね……?


15:51 [アナリストA]

お前、それは「ストックホルム症候群」だ。飴の糖分で思考停止するな。

……まあ、俺もさっきレオン様に微笑まれて、年俸据え置きでもいいかなって思ったけど。


[システム管理A.I.D.A(bot)]

不適切なログを検知。3秒後、当該チャンネルを物理削除します。


……飴のフレーバーに関するデータは、後ほど共有してください。


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