『現世に咲く黒の資産』③
第3部:翡翠の鑑定士
役所の帰り、二人は首都のきらびやかな大通りを外れ、路地裏の奥にある「影の吹き溜まり」へと足を進めた。
目的は、バルナザールの監視回線を欺くための「二重帳簿」を完成させることだ。
看板すら出ていない、地下へと続く薄暗い石階段がその店の入り口だった。
店に入る直前、レオンは足を止め、隣を見上げて銀髪の青年に静かに言い含めた。
「ヴァルプス。これから会う男は、ただ記憶に留めておくだけでいい。
……以前、お前があの男の無礼さに噛み付こうとしたのは覚えている。
だが、あれはあまりにも無粋な行為だ。今日は大人しく影に入っていなさい」
ヴァルプスは不満そうに唇を噛み、頬を膨らませる。長身を少し縮めるようにして、レオンを覗き込んだ。
「……だって、あの人。レオンに対して、ありえないくらい失礼じゃないですか」
その声には明らかな不快感がにじんでいた。しかし、レオンは冷徹な青い眼差しを向けて、静かにそれを制する。
「あれは、そういう風にしか作られていない『個性的な男』だ。プログラムのバグに怒っても、時間の損失にしかならない。……分かったな?」
「……」
レオンにとって、その異常な距離感を持つ男は、もはや「不快」という感情の対象ですらない。
ただ、そういう「仕様」の生き物なのだと処理している。
だが、主が侮辱されるその仕様に従うことは、ヴァルプスにとっては容易なことではなかった。
ヴァルプスは少し黙り込むが、やがて不満を喉の奥へ押し込めて、そっと頷いた。
階段を降りて重い鉄の扉を開けると、店内にはまるで時が止まったかのような静けさが漂っていた。
薄暗い壁には古びた東方の掛け軸が無造作に掛けられ、ほのかな湿気とともに、どこか退廃的な香朽の匂いが微かに鼻を突く。
細かな埃が静かに宙に浮かび、ランプの灯りが不安定に爆ぜる中、空間全体が鈍く沈み込んでいた。そんな淀んだ闇の奥から、翡翠色の瞳が、まるで獲物を狙うかのように鋭くこちらを射抜く。
やがて暗闇から浮かび上がった男の白い顔には、不気味な薄笑いが浮かんでいた。軽く揺れた耳朶の形が、彼がレオンと同じ種族であることを主張している。
『龍淵至高登記国』特有の薄紫色の衣装に身を包んだその男。彼の存在自体が、この奇妙な店の一部であるかのように、空間の異様さをいっそう引き立てていた。
「おや、いらっしゃい。
誰かと思えば……現世の新たな『ド・ラ・ノワール家長殿』じゃあないか」
淡桃色の髪を揺らし、マルヴェイが口元に悪戯めいた笑みを浮かべる。
レオンは眉一つ動かさず、冷ややかな視線を向けた。
「こんにちは、マルヴェイ。
……皮肉のつもりかな?
叔父上が聞けば、君のその薄っぺらな舌をコレクションに加えるだろう」
「おや、怖いな。でも、この『王国』では君こそが唯一の支配者だろう?
オスカル卿も、君が地獄の契約を書き換えてまで『家族』を増やしたことを面白がっているに違いない」
マルヴェイはカウンターから身を乗り出し、まるで獲物を検品するようにレオンを舐め回す。その翡翠色の瞳は、レオンの内面に生じるはずの『亀裂』を期待して爛々と輝いていた。
「……ヴァルプス、影に入れ。
……私の声だけを聞いていろ。呼ぶまで待機だ」
「……了解しました」
ヴァルプスは渋々とレオンの足元の影に沈み込んだ。その暗がりの中で、主人の冷徹な交渉を聞きつつ、不快な外気を遮断するように懐から薄荷味の飴玉を取り出して口に投げ入れ、耳栓をする。
マルヴェイは、レオンと二人きりになるなり、待ってましたとばかりに距離を詰めてきた。
鼻先が触れそうなほどの、狂気的な距離感。
マルヴェイの翡翠色の瞳が、レオンの青い瞳を奥までこじ開けようと、執拗な視線を注ぎ込む。まるで一つ一つの感情を収集するかのように、瞳孔の僅かな揺らぎすら見逃すまいとしていた。
深く、冷徹に、レオンの身体と心の隅々までを測り取ろうとする強烈な心理的圧迫。
普通なら嫌悪感で顔を背けるような至近距離。だが、レオンは瞬きひとつせず表情すら変えない。むしろその異常な距離感さえも『検収』の一部として悠然と受け止め、薄い微笑みを浮かべ返した。
「……右目の瞳孔が、薄く縦に割れている。これはどうしたんだい? へえ、わずかに金の輝きも見える」
「……原因は不明だ。誰かに呪いでもかけられたのかもな」
マルヴェイの濡れた吐息が、鼻主にまでかかり、レオンは目を細めた。
(……やはり、この男のパーソナルスペースという概念は初期設定から破損している。だが、この執拗な『個性』こそが、地獄の監視を潜り抜ける偽造技術の源泉なのだろう)
「……怖い? 自分がどんどん、自分でなくなっていく感覚は君を揺らがせているのかな」
「まあ、そうだな。なかなか興味深い身体になっているようでね。
昨夜よりスリットの深度が〇・五ミリ増した」
レオンは僅かに身を捩り、首元を差し出すように顎を引く。
「毎朝鏡を見るのが楽しくて仕方ないよ。
……君も、この機能美を理解できる側だと思っていたが、違ったかな?」
「ふん。君のその強さは、本当に毒だね。
……いや、嫌いじゃない。嫌いじゃないとも」
期待していた『動揺』が得られなかったマルヴェイは、苦い薬を飲まされたような顔でようやく視線を逸らした。
それでもその翡翠色の目は鋭く、視界の端でレオンの姿勢や仕草を執拗に観察し続けている。彼の欲望と好奇心は、この冷徹な交渉すらも一種のゲームに変えていた。レオンがどこまで自分を隠し通すのか、その内面の真実を暴きたくて堪らないのだ。
マルヴェイはレオンの揺らぎを観測できる材料を探して、目を床に滑らせる。
「……あの子を、わざわざ隠さなくてもいいのに」
「いや、君は刺激が強すぎる。
――さて、それで準備は整ったかな?」
レオンがビジネスライクに話を戻すと、マルヴェイは諦めたように肩をすくめ、一つの端末を差し出した。そこに表示されていたのは、専務の監視ログに『偽の105%』の数値を流し続ける、偽造ゲートの認証キーだ。
レオンは視界を埋め尽くすマルヴェイの顔を見下ろしながら、そっと右手を上げた。
マルヴェイはその掌の上に認証キーを乗せると、そのまま自身の手を重ね、指を絡ませてくる。
「今回の代価はねぇ……そうだな、そのタイピンを置いていってもらおう。
君の肌に一番近く、君の呼吸を聞いていた、その『名残』をいただこう」
レオンは無言でタイピンを外した。その動作は極めて無造作であり、まるで不要なゴミを捨てるような冷淡さだ。他人に執着されることさえ、彼にとっては自分の目的を果たすための『コスト』に過ぎない。
マルヴェイは手放されたタイピンを、宝物でも扱うように慎重に受け取った。
あらかじめ掌の上に広げていた白いハンカチでそっと包み込み、愛おしげに懐へと収める。その顔には、レオンの一部を手に入れたことへの、純粋な喜びが浮かんでいた。
「……Q3の検収は順調なようだな、
マルヴェイ。次の定期連絡を待っているぞ」
「あとでメールするね……ふふ」
小さく含み笑いをもらすマルヴェイの指先が、無意識のうちに再びレオンへと伸びる。
レオンはそれに気づかぬふりをして静かに身をかわすと、そのままマルヴェイに背を向けた。
地下の店を出ると、夕暮れの路地裏に漂う空気がほんの少し冷たく感じられた。
外に出てしまえば、もはやマルヴェイの執拗な視線からは解放されたはずだが、それでもレオンの耳の奥にはまだ、あの男の愉悦を含んだ声の余韻が残っている。
「ヴァルプス、行くぞ」
影からヴァルプスがひょいと現れ、レオンの背を追って歩き出す。
風が吹き、路地の片隅に積もった埃が舞い上がった。レオンはヴァルプスと歩幅を合わせ、足元に視線を落としながら一歩ずつ前に進む。その横顔は静かだが、どこか内側から湧き出す愉しみを噛み締めているようでもあった。
マルヴェイの挑発を逆手に取り、自らの変異を『機能美』と断じた瞬間の、マルヴェイの拍子抜けした顔。
それを思い出すことは、レオンにとって密かな勝利の味だった。
「……レオン。社長、あの、お兄様」
「……混線しているぞ、ヴァルプス」
「……すみません。でも、あの人の前でレオンが……なんだか、すごく遠いところに行ってしまう気がして」
「……それは」
私の演算領域にはないエラーコードだな、と言いかけて口を閉ざす。
レオンは一瞬だけ足を止め、自らの右目にそっと触れた。
「……問題はない。遠くへなど行かないさ。
ただ、私という資産がより効率的に、より強固にアップデートされているだけさ」
レオンは薄く目を細めると、胸元から色付きの眼鏡――サングラスを取り出して装着した。
世界は一瞬で影の色に沈んだが、ぎらついた西日の光が遮られたその景色は、今のレオンにとっては驚くほど歩きやすく、心地よいものだった。
「……正直なところ、面白いと思っているよ。見るものすべてが新鮮で」
「一度、悪魔界で検査を受けてみてはいかがでしょうか」
「効率が悪い。休暇は取りたくない」
「……でも」
「さあ、帰ろう。
今日はマルヴェイから掠め取った『余裕』で、最高に甘いケーキを検収しようじゃないか」
レオンは淀みなく一歩を踏み出して、ヴァルプスに笑顔を向けた。
「……君、好きだろう?」
背後で「好きですけど」と呟いて見下ろすヴァルプスの気配を感じながら、彼はサングラスの奥で、割れた右目をさらに細めた。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




