『破滅の契約、あるいは孤独な支配者』⑤
第5部:不確定未来への初期投資
無機質な黒曜石の廊下にまろび出た瞬間、レオンは壁に手をつき、深く息を吐いた。
冷たい汗が背中を伝い、今さらになってタイを緩める指先がひどく震えている。
深い呼吸を繰り返すたびに、バルナザールとの交渉で浴びた魔圧の気配──あの大悪魔の重圧が、遅れて胸の奥へ圧し掛かってきた。
「……ここで死んだら、魂はどこに行くんだ、ヴァルプス」
息を整えるように、レオンはかろうじて言葉を絞り出した。
「あはは……。
レオン、顔色が芋の乾物みたいですよ」
「……君の反応を見てる方が、よっぽど怖かった」
「いや、まあ、閣下は格上なので……」
ヴァルプスは軽やかな笑い声を上げたが、その声の裏には、冗談めかしながらも隠しきれない寂しさと安堵が滲んでいた。
ヴァルプスの足元の影は、かつてのようにノイズを撒き散らすことなく、レオンの影とぴったり重なるように静かに収束している。
「……レオン。
さっきの『個人事務所』の話、本気ですか?
履歴書とか、書き直さなきゃいけないんですけど」
ヴァルプスが、少し視線を泳がせる。
レオンは固めた表情を崩さぬまま、言葉を告げた。
「今日からお前は、本社の備品じゃない。
私の、専属の……ただの悪魔だ。
……文句はないだろう」
ヴァルプスは一瞬だけ視線を床に落とした後、目を細め、改めてレオンの顔を見上げた。
「いいえ。……文句はありません」
どこか意外なほどの礼儀正しさで一礼する。
「社長、とお呼びしたほうが?」
呼ばれたその瞬間、レオンは微かに眉をひそめた。だがすぐにその表情を押し殺し、ポケットから汗ばんだハーブのタブレットを一粒、口に放り込んだ。
苦味と清涼感が、凍りついた理性を少しずつ溶かしていく。
「……いや」
──自由を勝ち取ったのではない。
今、二人はもっと深い意味で、後戻りのできない場所へ進み始めている。
悪魔界と現世というシステムの中で、彼らが向かうのは、より険しく、孤独な航路だ。
「……私たちだけだ」
レオンは遠くを見つめ、その言葉を呟いた。
どんな結末が待っているかを知りながら、それでもこの歪んだ契約を抱えて進んでいくしかない。
それをどうしようもなく受け入れていく覚悟だけが、春の薄明かりの中に静かに溶けていった。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




