第46話:『二重否定(ダブル・ネガティブ) ー 01/16 23:59 執行開始』
第1部:外部入力拒否
一月十六日 二十三時五十九分
分刻みの商談、数回に渡る会議。そして数兆魔貨の資金移動。
すべてのタスクが「完了」のチェックマークで埋め尽くされた瞬間、レオンの意識はプツリと断線した。
崩れ落ちるレオンの身体を受け止めたのは、一日中、影のように寄り添っていた管理官の腕だ。
「……お疲れ様でした、レオン。一月十六日の『資産運用』、これにて全行程を終了します」
耳元で囁くヴァルプスの声は、勝利の凱歌ではなく、深い眠りへと誘う呪文のようだった。
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一月十七日 七時
レオンが意識を浮上させたとき、網膜に映ったのは、ド・ラ・ノワール事務所のプライベートラウンジの柔らかな天蓋だった。
カーテンの隙間から差し込む冬の白い陽光は、昨日までの刺すような冷徹さを失い、計算し尽くされた暖かさで寝台を包んでいる。
レオンは、重い瞼を無理やり押し上げた。
『……おはようございます、マスター。
本日は土曜日。全スケジュールの「休止」を確認。
……バイタル、正常値へ復帰。資産価値は……極めて安定しています』
ゆっくりとレオンに浮遊して近づいてくるA.I.D.A端末の声さえも、心なしか普段の冷酷さを潜めている。
レオンは、指先を動かした。十何時間か前に鉄錆の味で塗り潰したはずの唇は、ヴァルプスの「調律」によって滑らかに修復されていた。
胸の奥を探っても、バルトロメの罵声は、遠い海底で揺らぐ残響のように実感を失っている。
「――お目覚めですか、レオン」
寝台のすぐ傍ら。
ヴァルプスは、献身的な管理官の貌で微笑んでいた。
「今日は、一歩も外へ出る必要はありません。
……ボクが許可する『安寧』だけを、ゆっくりと摂取してください」
耳元で響く、低く、甘く、それでいて絶対的な命令。
ヴァルプスは、レオンの背にそっとクッションを差し入れる。その指先が、レオンの黒髪を、慈しむように梳いた。
深夜の反逆を、ヴァルプスは責めない。ただ、「なかったこと」にして、繭の中にレオンを閉じ込める。
それは、どんな叱責よりも残酷な静かな支配が、確かに形を結んでいた。
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第2部:部特権昇───[System Error]
一月十七日 午前十一時
静まり返ったサーバー室の通路を、マルヴェイの足音が、重厚な絹の衣擦れと共に滑る。
今日の彼は、職場のドレスコードを嘲笑うかのような、深い藍色の長袍を纏っていた。袖口に施された銀糸の雲龍が、サーバーラックの冷却ファンの風に吹かれ、生きているように蠢く。
黙々とコードを叩くSREのエンジニアの後ろを、マルヴェイは音もなく通り過ぎる。
エンジニアは振り返りもしないが、背筋を走る冷たい気配に、無意識に心拍が上がるのを、マルヴェイは見逃さない。
「……ご苦労様。パッチ当ては順調かな?
でも、君たちが監視しているメインフレームの影で……『CEOの個人的な絶望』という名の巨大な未定義バグが、今、熱を帯びていることに気づいているかい?」
エンジニアのモニターに映る無機質な数字の羅列。
マルヴェイは、その羅列の僅かな「揺らぎ」の中に、昨夜レオンが流した鉄錆の味のする絶望を重ね、薄い唇を吊り上げた。
「……いや、いいんだ。君たちは数字通りに動けばいい。
……その『バグ(レオン)』をどう調理するかは、私という特権階級の特権だからね」
マルヴェイは、さらりと流れる淡桃色の髪を指先で弄び、翡翠の瞳を細める。
細身な体躯は、東方系の装束に包まれることで、より一層、実体のない幽霊のような不気味さを際立たせていた。
彼はそのまま、CEO専用ラウンジへと繋がる魔導昇降機の前で足を止める。
網膜スキャンが走る。だが、返ってきたのは承認の電子音ではなく、ヴァルプスの魔力が混じった『Access Denied』の冷徹な文字列だった。
(……やれやれ。
あの狂犬、今日は『主さま』を完全に自分の檻に閉じ込めたつもりらしい)
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地下のラボに足を踏み入れると、天井の鈴飾りが低く、不吉な音を立てて彼を迎えた。
マルヴェイは、藍色の長袍を脱ぎ捨てることもなく、深いソファに身を沈めた。スリットから覗く細い脚を組み、レオンから奪った吸い取り紙のインクの匂いを、まるで芳香のように深く吸い込む。
「……拒絶、ね。いいよ、ヴァルプスくん。
君が表の扉を閉ざすなら、私はもっと深い場所……君が怖くて触れられない『レオンの深淵』に居座ってあげるから。
……サヴァス家の法理に従って、君の管理権限を根底から書き換えてあげるよ」
マルヴェイは、翡翠の瞳に昏い光を宿しながら何もない空間に黒い爪先を突き立てた。
空気を引き裂くように、無数の燐光を放つ術式コードが溢れ出し、半透明のキーボードと、虚空に浮かぶ多重ホログラムモニターを構築していく。
マルヴェイはサヴァス家専用の通信回路を開く。翡翠の瞳に、回路図の百合が冷たく反射する。その幾何学的な花弁が、レオンへの独占欲に呼応するように、青白いノイズを散らしながら明滅した。
「……私だ。
……一族の『裏の法理』の全データベースへの、無制限アクセス権を要求する。
……ああ、代償は私の魂の欠片で。
……安すぎる買い得だろう?」
要求を送信した瞬間、ラボの鈴が一斉に、耳を刺すような高音で鳴り響いた。それは、一族の長老たちの「強欲な承認」が、物理的な振動となって空間を震わせた証だった。
「……世界の基幹システム(レオン)の深層に、私を常駐させる」
網膜上に、サヴァス家独自の分散型台帳が展開される。
「承認(Accept)」と「却下(Reject)」のログが、秒間数万回の速度で殴り合い、レオンという巨大な資産の「分割所有権」を巡って、一族の亡者たちが血眼で演算を競い合っている。
(……違う。お前たちは何も分かっていない。
彼は“取得対象”じゃない。
私が、彼の裏側で呼吸するための世界だ)
マルヴェイは、その醜悪な数字の奔流をゴミでも見るような一瞥で切り捨てると、藍色の長袍をはだけた。
剥き出しになったマルヴェイの白い肌に、モニターから溢れ出す「Accept」の緑と「Reject」の赤が交互に走り、激しく明滅する。その光景は、彼自身が巨大なシステムの欠陥を告げる「点滅する警告灯」へと変質していくかのようだった。
「……ふん。勝手に吠えていればいい。
……君たちの強欲は、私が根を張るための燃料として使わせてもらうよ」
自身の白い胸元――心臓の直上に、サヴァス家の「回路図の百合」が刻まれた銀の印章を押し当てる。
印章は皮膚に沈むのではなく、まるで内側から迎え入れられるように溶けた。
地下ラボの電圧が、不吉な予兆を孕んで激しく明滅した。
ジ、と肉を焼く音がし、立ち上る煙が東方系の香炉の香りと混ざり合う。
激痛に翡翠の瞳を潤ませながらも、マルヴェイは薄い唇を吊り上げ、メインコンソールに指を滑らせた。
「……おいで、私の最高傑作。
レオンが抱え続けた未払いの負債(執着)を、
永遠に共有するための――
非対称な終末評価機」
モニター群が突如として、毒を含んだ深紅――『ポイズン・ボルドー』に染まり上がる。
無機質な文字列が、まるで生き物のように蠢き、一つの「心臓」の形を成して脈動を始めた。
『……Booting…… C.O.L.L.A.T.E.R.A.L. System Online.』
脳内に響くのは、ノイズ混じりの甘く濁った妖艶なテノール。
目の前に顕現し、浮遊する小さな赤黒い正二十面体を見つめ、マルヴェイは唇の端を舐める。
マルヴェイは、自らの魂の一部がその「深紅の心臓」へと吸い取られていく感覚に、恍惚とした吐息を漏らした。
「……いい子だ。生まれたね」
マルヴェイの翡翠の瞳に深紅のノイズが走り、散っていった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




