『雪解けの夜の覚醒』③
第3部:
時間をかけて移動した近場の街は、雪解けの陽光に包まれていた。
昼下がり、三人は賑やかな茶店のテラス席にいた。
林檎が贅沢に乗ったタルトを前に、ヴァルプスは昨日までと変わらぬ無邪気な微笑みを浮かべている。しかし、そのスーツ越しに見える体躯の厚みや、時折レオンに向ける「監査」するような冷徹な視線は、周囲の客が寄せる感嘆の溜息を置き去りにするほど異質だった。
レオンは、冷めかけた紅茶を口に含み、微かな頭痛とともに目を伏せる。
「レオンさん、お顔色が……大丈夫ですか?」
宝石姫の純粋な気遣いが、今のレオンには何より痛い。
「なんでもないよ。少し、昨夜の魔力の残滓に酔っただけだ」
嘘を吐きながら、彼女の細い手元の枯れ葉を払うように軽く触れる。その温もりに一瞬でも縋りかけた自分を、レオンは内心で激しく罵倒した。
「レオン、召し上がらないのですか? 美味しいですよ」
ヴァルプスがフォークを手に、弾んだ声で話しかけてくる。レオンはぎこちなく口角を上げつつ、テーブルの下でヴァルプスの脛を軽く蹴り、無言の抗議を示した。
「ちょっと、甘すぎてね……。良かったら、君が食べてくれると助かる」
「いいですよ! ボク、甘いものは大歓迎ですから」
レオンの譲歩を、ヴァルプスはまるで「降伏(債権)」の味見でもするかのように、幸せそうに咀嚼した。
胸の内で膨張する複雑な感情。ティーカップを握る手に力を込め、あとで必ず主従の規律(分からせる)を叩き込むと決意する。
会話の合間を縫って、レオンは宝石姫に告げた。
「……ところで、ヴァルプスの急激な成長に伴って、悪魔の契約更新の手続きが必要なんだ。
今夜は、彼と二人で少し込み入った話をしなければならない」
「そうですか……。ヴァルプスくんが立派になった分、レオンさんの負担が増えるのは心配ですけれど。よろしくお願いしますね」
宝石姫の信頼に満ちた言葉が、レオンの胸を深く刺す。今夜、自分が行うのは「相談」などではない。大悪魔の影を背負った悪魔に、自らの「夜」という全資産を明け渡すための、無様な譲渡交渉なのだ。
やがて陽は落ち、街に夜の静寂が訪れる。取った宿は、街でも指折りの高級宿。宝石姫を彼女の部屋まで送り届けた後、レオンは重い足取りで自室のドアを開けた。背後には、もはや隠そうともしない強大な魔力を纏ったヴァルプスが、影のように寄り添っている。
「……さて、主さま。邪魔者はもういませんよ」
扉が閉まり、鍵がカチリと音を立てる。その冷たい金属音が耳に残り、同時に胸の奥で理性が完全に閉じ込められる感覚が襲う。
四六〇年の誇りも、耐える意志も、今夜はすべて、ヴァルプスの掌の上で精算される。
レオンの深い呼吸が夜に溶けるとき、暗闇の中でヴァルプスは妖しく微笑んだ――二人だけの、沈黙の共犯の夜が始まろうとしていた。
※2026/05/21 大幅修正をしました。




