第2話:『夜の共犯、承認札の誓い』— 組織(政治)
承認札を持つようになってから、夜は静かになった。
かつての契約更新に付きものだった鋭い交渉や血の匂いは、今はもうない。鈍い銀色の札一枚が、レオンという誇り高き騎士の「重荷」を法的に剥ぎ取り、強制的な安らぎを与えている。
それでも——。
隣に眠る男の体温を背中で感じるこの時間だけは、別物だった。
ヴァルプスは、自分がまだ経験の浅い年若き小悪魔であることを、否応なく思い知らされる。
レオンが深い眠りに落ち、規則正しい寝息が部屋を満たした頃。
ヴァルプスは音もなく寝台を抜け出し、青白い月光が差し込む窓辺へと移動した。掌にあるのは、鈍く光を返す承認札。指先に魔力を流し込み、特定の波長で空間を叩く。
ほどなくして、鏡のように滑らかな虚空に漆黒の影が滲み、ひとりの男の輪郭を結んだ。南方交易都市ヴァルエールに宮殿を構える大悪魔、バルナザール。
通信越しに金の双眸がこちらを捉えた瞬間、部屋の空気がわずかに沈む。冷気でも威圧でもない。ただ「在る」だけで、世界の重心がずれる感覚。影が定まった瞬間、音が消えた。
「……呼吸が軽いな」
低く静かな声。それだけで、すべてを見透かされた気がした。
「どうやら、あのエルフと……同じ夜を越えたらしい」
ヴァルプスは一瞬だけ背筋を正すが、すぐにいつもの不敵な笑みを貼り付けた。
「さすがだな、父上。お見通しか。
もらった承認札、最高だったよ。主さまは自分の誇りと宝石姫を守るために、自らこの鎖に首を通したんだ」
「ほう……」
バルナザールの視線が、わずかに細められる。
「ずいぶん丁寧な鎖だ。壊さず、縛らず、逃げ道だけは残している」
ヴァルプスは肩の力を抜き、心の中で息をついた。彼が選んだ「やり方」を褒められたようで、少しだけ胸が温かくなる。
だが金の瞳が、深く、静かに覗き込む。
「勝ち取った者の顔ではないな」
胸の奥を直接撫でられたような感覚に、ヴァルプスは一瞬言葉を失う。すぐに肩をすくめ、軽口で覆い隠した。
「……余計なお世話だよ。
ボクはただ、最高の素材を一番いい状態で維持したいだけ。
父上も、ボクが欲しかったんでしょ? これで契約成立だ。
今日からボクの身元は、正式に君の宮殿の傘下さ……文句ないだろ」
「ふむ……自由を愛するお前が、自ら私の系譜に名を連ねるとはな。
あの男一人の安らぎのために、随分と高い買い物をしたものだ」
金の瞳が愉しげに細められる。ヴァルプスは小さく肩をすくめ、内心で「ずるいな」と呟いた。
「よかろう。本日付でお前を『バルナザール直属・現世特別管理官』として受理した。これで他の派閥(理性派)の連中も、お前という『検体』には指一本触れられまい」
ヴァルプスは胸の高鳴りを抑える。
安心の一方で、重圧も帯びていることを直感した。
「……だが、ヴァルプス。我が部門は中途入社に甘くはない」
「え……?」
不穏な言葉に、ヴァルプスが眉をひそめる。口元には、肉食獣のような笑みが浮かんでいた。
「お前は素材としての知識は豊富だが、本能派を名乗るなら、あのエルフを無様にはできん。
後日、私か息子たちから『教育』を受けることになるだろう。……実務を通じて、体得せよ」
ヴァルプスは思わず息を詰める。言葉を濁したまま「……ちょっと待ってよ!」とだけ返した。心の中で、レオンを想いながら——「でも、これも全て、君のためか」と思い直す。
「情は契約よりも厄介だと言ったはずだ。
選んだのだ、ヴァルプス。その熱を失わず、完璧に制御し、あの男を守れ……主が起きたようだぞ」
ヴァルプスは小さく頷く。気配を感じ、慌てて告げた。
「! ……もう切るよ。おやすみ、父上!」
「ふむ」 ほんの一瞬、口元に皮肉めいた気配。
「……その熱を失うな。おやすみ、ヴァルプス。選んだのなら、最後まで抱いていけ」
影は静かに霧散し、空間は元の静けさを取り戻した。ヴァルプスは大きく息を吐き、どっと押し寄せた疲労感に肩を落とす。
レオンは静かに眠っていた——その寝顔に、ヴァルプスはそっと手を伸ばす。
「……やっぱり、父上はずるいな。あんな風に操るなんて……」
支配、管理——そんな冷たい言葉では、この関係を説明できない。
ヴァルプスは寝台で眠るレオンを抱き寄せ、誰にも見せない、年相応で狂おしいほどの執着を宿した顔で呟いた。
「ボクはただ……君に、誰よりも幸せでいてほしいだけなんだよ、レオン」
四世紀半生きる男を自分のものにするための、共犯という名の独占。
その確かな熱を抱きしめ、ヴァルプスは静かに目を閉じた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。




