第44話:『檻のホログラム ー 01/16 02:00 執行開始』
第2部:檻のホログラム
一月十六日 二時
静寂に支配された執務室は、都市の夜景を足元に沈め、冷徹な理性の檻と化していた。
重厚な扉が、音もなく開く。大きな影――ヴァルプスが、一人の男を伴って執務室の深淵へと足を踏み入れる。
机の主、レオンは黒椅子を回転させることもなく、ただ左手に持った無機質な硝子瓶を月光に透かしていた。
冷たく澄んだ白桃の果肉が沈んだそれを、まるで精密機器の部品を検品するかのような真剣な眼差しで見つめ、目を伏せる。
レオンは硝子瓶を置くと、ようやく客人を――怯えを隠せない俳優団体の代表を、氷の瞳で射抜いた。
「……私の『時間』の単価は、君たちの劇団の年間予算に匹敵する。
……挨拶は不要だ。契約書(NDA)の締結は済んでいるな?」
片手に硝子瓶を持ったまま、数兆魔貨を動かす声で言い放つ。
レオンの肩の上に浮いているA.I.D.A端末が、網膜上に青い波紋を描き出した。
『警告:管理官ヴァルプスの不信指数が0.02%上昇。
マスター、現在のあなたの『桃の瓶を抱えた姿』は、威厳の維持において非効率なノイズと判定されます』
「除外だ、A.I.D.A。
……この甘みの欠落こそが、今夜の『演技』に必要な……初期投資だ」
劇団の代表――名うての演出家として知られる老人バルトロメは、レオンが手にした桃の瓶と、その氷のような眼差しの乖離に、唾を飲み込んだ。
この男は、百二十兆魔貨を動かす指先で、白桃の入った硝子瓶を弄んでいる。その光景は、どんな前衛劇よりも不気味な説得力を持っていた。
「……レオン様。契約書は……ええ、拝読しました。
ですが、我々に求められている『役』の内容が、あまりに……」
「私の『死』に、いくらの値がつくと思っている?」
レオンは硝子瓶を、背後に立つヴァルプスへ、視線を向けることなく差し出した。
無言でそれを受け取ったヴァルプスの指先が、瓶の縁に残った一滴の果汁を、検品するかのように拭う。
第三条「ウェルビーイングの維持」。管理官の手帳に刻まれるのは、主の喉を通った糖分のログか、あるいは秘められた執着の残滓か。
ヴァルプスは音もなく一礼すると、影に溶けるように執務室から姿を消した。
扉が閉まる。
A.I.D.Aのログが「管理官:圏外」を表示した瞬間、レオンの指先から力が抜けた。
……一拍。
椅子の背もたれに預けた身体が、微かに沈む。
「……A.I.D.A、防音結界、最大出力」
レオンの黒い角から青い火花が散り、執務室の空気が物理的に固定される。
外部の音を、そしてヴァルプスの「保護」さえも遮断する、非情な沈黙の完成だった。
レオンは、震えを殺すように机の上で両手を組み直した。
「さて。二月の決算発表において、私は『完璧な消滅』の予兆を見せる」
レオンは机上のホログラムを起動させた。投影されたのは、窓のない、冷たく湿った石造りの地下室だった。
レオンの叔父であるオスカルがレオンを百年繋ぎ止めた、「檻」の再現データだ。
「……私に『絶望』を教えてほしい。
私が……『完璧な資産』として最適化を完了するための、鏡になれ」
『警告:マスター。扁桃体の活動が危険域に達しています。
感情ログを隔離――』
「……不要だ、A.I.D.A。
……この『震え』の単価を計算しろ。
それが、私の演技の原価だ」
レオンは投影された『檻』のホログラムを指先でなぞった。青い光が彼の褐色の肌を冷たく透過し、剥き出しの神経のように脈動する。
「まず誤解をしないでほしい。
私が求めているのは、舞台上の喝采ではない。
……二月の決算。そしてその先に控える交渉において、私の心拍一回、呼吸の深さ一ミリに至るまで、完全に制御された『虚飾』を維持することだ」
演出家の老人が、震える声で問い返す。
「……その交渉相手とは、先ほどまでここにいた彼のことですか?」
レオンは答えず、しばらく老人を見下ろした。
「……質問に質問で返すが。君は、自分の喉元を愛撫する刃を、わざわざ鏡で確認したがるのか?」
レオンはわずかに首を振る。
「ヴァルプスは盾だ。だが、盾の裏側までは守れない。
……私がこれから君と行うのは、彼にすら開示できない書き換えだ」
一歩、距離を詰める。
「この部屋で起きたことは、ヴァルプスにも、A.I.D.Aのメインログにも残さない。
――それが、君たちへの報酬の真の意味だ」
レオンは机に身を乗り出し、夜の獣の目で彼を射抜いた。
「私の叔父――オスカル・ド・ラ・ノワール。
……その名は、この契約期間中、この結界の外へ持ち出すことは許さない。
彼が私に与えた百年の『教育』を、十月の決済までに武器へ変える。
……バルトロメ。私を絶望の底へ叩き落とせ。
……私が、その暗闇すらも使いこなせるようになるまで。
……怯える時間は予算外だ」
レオンは机を離れ、ホログラムが投影する「窓のない石造りの床」へと歩みを進めた。
最高級の絨毯の上に、投影された冷たい水溜まりが滲んでいる。レオンがその境界に足を踏み入れるたび、最高級の革靴が存在しない湿泥に沈む。A.I.D.Aが、その幻を強制する。
彼はその「牢獄」の中心で、あえて椅子も使わずに立ち尽くした。
「……A.I.D.A。防音結界、最大出力。ヴァルプスへの偽装ログを走らせろ」
『了解。……マスター、心拍数130。資産価値に悪影響を及ぼす減損要因と判定。
強制シャットダウンを推奨します』
「除外だ、A.I.D.A。不渡り(パニック)は出さない。
……始めろ。
叔父が私を『無価値なガラクタ』と定義した、あの声を再現しろ」
演出家の老人が、震える手で脚本を握り直す。その光景は、痛々しいほどに気高く――どこか決定的に歪んでいた。
「バルトロメ。演出は不要だ。
私の精神を徹底的に減損処理しろ。その『声』で私を蹂躙しろ。
……もっと深く、抉れ」
『警告:セロトニン還元が無効化されます。
精神的デフォルト(債務不履行)のリスクが許容範囲を超過――』
「構わない。……計上しろ」
一拍。
「これが、私の原価だ」
『警告:マスター。異常な「自己決定感」を検知。これを「幸福度」として計上しますか?』
「……ふ、は……。皮肉だな、A.I.D.A。
……自分を壊す自由だけが、奴の目に届かない唯一の『私物』だというのか」
レオンは唇を、血が滲むほどに強く噛み締めた。
ヴァルプスの指が残した白桃の甘みを、鉄錆で塗り潰すために。
彼を潤していた、あの背徳的な「幸福」という名の不純物は……死に絶えたと、信じることにした。




