『破滅の契約、あるいは孤独な支配者』③
第3部:損害の逆張
重厚な執務室の奥。宇宙のような虚空を背負って座るバルナザールは、手元の魔導書から視線を上げることなく、冷淡に言葉を紡いだ。
圧倒的な体躯。黒褐色の肌に映える黄金の瞳が、書類の束を透過してレオンの心臓を直接値踏みするように光っている。
「……お招きいただき、光栄です。専務」
レオンは一歩前へ出た。隣のヴァルプスは、バルナザールの放つ絶対的な存在感に圧せられ、いつも以上にその輪郭を乱している。
因子三%の血の繋がり──その根源的な恐怖と敬意が、彼を「現場の有能な相棒」から「怯える子供」へと引き戻そうとしていた。
レオンはヴァルプスの視界を遮るように半歩前に立ち塞がると、少しだけ背伸びをする。
二メートルを超えるバルナザールの巨躯と、それに近いヴァルプスの長身。
レオンの背幅ではどう足掻いても物理的に隠しきれない。だがそれは、少しでも相棒へ届く視線のノイズになろうとした、彼なりの精一杯のジャミング(遮蔽)であった。
レオンは魔導タブレットを黒檀の机へと滑らせる。
「……Q2の暫定報告書です。現時点でのROI(投資利益率)は、契約上の最低義務である100%を上回る『105%』を達成。
現世の市況は不安定ですが、この水準は維持できる見込みです。
……確認を」
バルナザールは、ようやく顔を上げた。
「ふむ……。君は本当に飽きさせないな。これほどの数字を、あのドブ板のような現世で叩き出すとは」
専務は指先一つ動かさず、視線だけでタブレットのデータをスクロールさせる。
「……素晴らしい。
死のオークション、記憶のデリバティブ取引。
我々悪魔の理念をこれほど正しく『純利益』に変換できるヒト種族は、長い歴史の中でもなかなか見ない」
「ありがとうございます。
……ですが専務、この数字の裏付けは、ヴァルプスという執行権者の『現場判断』に依存しています。
今回届いた本社の通達──彼の支配権を強制回収するという決定は、今後の事業における最大の不確実性リスクとなります」
レオンは、努めて感情を排した。
ここで「ヴァルプスを助けてくれ」と情に訴えれば、この冷酷なトップは即座に彼をスクラップにするだろう。
「……リスク、か」
バルナザールは、背もたれに深く身を預けた。黒い巨角が、天井の闇を切り裂くように優雅な弧を描く。
「おやおや。……勘違いしないでほしい。
私は、君という重要アセットを保護するために、この決定を下したのだよ。
……君の言う通り、ヴァルプスはよく働いた」
バルナザールは、そこで言葉を区切る。
「だが、稼ぎすぎたのだ。
今の彼が蓄積した魔力量は、本来の推奨スペックを著しく逸脱している」
専務の声は、どこまでも柔らかく、慈愛に満ちていた。しかし、その内容は「ヴァルプスという人格の初期化」を、まるで福利厚生のように語る無機質なものだった。
「……暴走し、君を傷つける前に、私の『影』として一度回収し、初期化するのが最も合理的な保全メンテナンス(減価償却)だ。
……身体は資本だぞ、レオン」
「……私の資本を心配してくださるなら、方針の変更を。プランBを提案します」
レオンは冷え切った指先で、自身のネクタイを整えた。
ポケットの中にあるハーブの香りを静かな糧に、彼は「騎士」ではなく、バルナザールと同じ土俵に立つ「交渉人」として、不敵な笑みを浮かべた。
「初期化は、ただの『埋没原価』です。
彼がこれまで現場で蓄積した『ノウハウ』と『私との同期率』は、本社では再現不可能な我が社の簿外資産だ。
……もし彼をスクラップにするというなら、私は今この瞬間、すべての現世事業を停止し、全アセットを強制清算させます。
……トータルで赤字を被るのは、あなたの方だ」
バルナザールの黄金の瞳が、一瞬だけ鋭く、楽しげに細まった。
静寂の中、執務室の空気がミリミリと音を立てて震え始める。
「……ほう。私に、損切りを飲めと言うのか?」
バルナザールの身体から魔力の圧が漏れる。彼から生み出された黒い煤が、室内に散った。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




