『破滅の契約、あるいは孤独な支配者』①
第1部:リスクの序章
レオンは徹夜の疲労を圧し殺し、魔法陣の如く複雑に暗号化された「魔力損益計算書」の数値を睨み続けていた。
傍らではヴァルプスが、現世の富豪から収奪した「負の感情」を精製する装置に向かい、魔力パウダーの配分を慎重に調整している。そこに漂うのは、神秘の静寂などではなく、「納期に追われる共同経営者」たちの張り詰めた労働環境そのものだった。
その時、デスク上の「黒革表紙の魔導タブレット」が、冷徹な通知音を響かせた。
「……本社からのダイレクトメールか」
レオンが指を伸ばすと、画面には灰色のヘッダーに「緊急」とだけタイポされた魔法通信が表示された。
端末の液晶から漏れ出た紫色の魔力が、室内の温度をコンマ数度引き下げる。
【緊急:アセット評価及び運用方針の再定義について】
対象:被管理体レオン・ド・ラ・ノワール
参照:専属代理人ヴァルプスの支配権及び機能不全リスク(中略:支配権回収と地位保留の宣告)
執行:即時。異議がある場合は、悪魔界魔王本社・バルナザール専務執務室にて対面での釈明を認める。
「……フン、なるほど」
レオンは軽く眉根を寄せて顎を上げた。
この支社(現場)から唯一の現場執行責任者であるヴァルプスを、魔界の論理で「強制回収(アカウント凍結)」するという一方的な通達。
「ヴァルプス、これを見ろ。生ぬるい引き抜き人事などではない。敵
対的買収に近い、本社の強制的介入だ」
「……あ、やっぱり来ましたか。先ほどから魔導VPNのログイン権限が軒並み認証エラーを起こしていると思ったんですよ。
ボクのコア権限、すでに『閲覧専用』へディスカウントされています」
ヴァルプスは作業の手を止め、気だるげに肩をすくめた。痩せ我慢のようにおどける動作の上で、銀髪に隠れた横顔は確実に青ざめていた。
「……『直ちに』とは恐れ入るな。
現行のオークション在庫は、お前という執行権者がいなければ洗浄すらままならない。
本気で言っているのか?」
「あの人にとっては、支社のポートフォリオが回るか否かなど些事なんですよ。
ボクという人的資産の『所有権』を本社のアカウントに戻すことの方が、重要タスクなんです。
……まったく、効率の悪い経営陣だ」
ヴァルプスは歪んだ笑みを浮かべた。
レオンは一瞬だけ眉根を寄せたが、即座にその内圧を理性の下へねじ伏せた。
ここで自分が動揺を示せば、ラインで繋がったヴァルプスにさらなる過負荷をかけ、その輪郭を強制ログアウトへ追いやってしまう。
(静かにしろ。……私が乱れれば、こいつが傷つく)
レオンは肺の空気を静かに排出し、極めて事務的な動作でタイを締め直した。
「……ヴァルプス、行くぞ。
悪魔界ポータルのアクセス権と、本社へのゲートキーはまだアクティブだな?」
「……ええ、一応は。ですがレオン、あの閣下はもともと、無理な条件緩和に応じるような甘い悪魔ではありませんよ」
ヴァルプスは執務机の端に指を走らせ、ため息混じりに言葉を紡ぐ。
「それに、いくら数字で説明したところで、あの人はあなたが対等な『経営者』であることを認めたくない。
ボクはこの現場にすべてをコミットしてきたけれど……閣下にそれを評価されたことなど、一度もない」
いつしかヴァルプスは、バルナザールを「閣下」という組織の記号で呼ぶようになっていた。本来であれば微かな因子の繋がった個体同士なのだが……。
レオンはヴァルプスの吐露を静かに受け止め、励ますように微笑を浮かべてみせる。
「だからこそ、だ。
君の言う通り、これは感情で清算できる問題ではない。
この魔導タブレットにデプロイされた『絶対的な実績(時価総額)』を、あの男に叩きつけよう」
レオンは毅然と立ち上がると、迷いのない手つきで上着のポケットに、姫が持たせてくれた「ハーブの粒」を滑り込ませた。
「ヴァルプス、ちょっと待て。オフィスを発つ前に、専務へ今すぐダイレクトラインでの取り次ぎを要請する。
これ以上この通知を無視していては、ただでさえ少ない時間が無駄になるからな」
「……わかりました。
……でも、無理だけはしないでください」
「分かっている。……行くぞ、本社へ」
※本作品の悪魔は、基本的に全員「スーツ」を着用しています。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




