『光の代償、闇の覚悟』①
※騎士と姫と悪魔の三角関係の話です。
第1部:沈黙の炉辺
邸宅のキッチンは、驚くほど静かだった。
窓の外には、春を待てずに凍りついたままの残雪が、薄汚れた灰色の光を反射している。あの弱々しい光すら、今の彼女には遠く感じられた。
宝石姫は一人、大きな鍋をゆっくりとかき混ぜていた。
コトコト、と煮える音だけが、耳に痛いほどの静寂を際立たせる。かつて焚き火の周りでレオンが語ってくれた冒険の物語も、ヴァルプスが気だるそうに漏らした皮肉も、今ではもう、この広いキッチンの隅々まで届かない。
二人が歩み始めた新しい世界では、彼女の存在はまるで影のように薄れていくばかりだった。
(……今日も、遅いのね)
彼女は、まな板の上の野菜を寸分狂わぬ正確さで刻んでいく。かつては「レオンさんのために」と心を躍らせていた指先も、今はただ、役割を全うするための機械的な動きに変わっていた。
彼女は知っている。自分の身体が、一本の髪、一枚の爪に至るまで、現世と魔界を繋ぐ貴重な「光の触媒」であることを。
そして今、二人のビジネスの裏側で、自分という存在そのものが、彼らを現世に繋ぎ止める最大の「担保」になっていることも。
(私……もう、必要ないのかしら)
ふと、包丁を握る手が止まる。
レオンは自ら目隠しを選び、ヴァルプスはその影となって、自分たちの知らない「冥光」の世界を歩いている。
二人の世界は、もはや彼女の光が届かないほど深い闇の底で、完璧に完結しているように見えた。
(髪も、爪も、すべて差し出した。──でも、私の心はどこに置けばいいの?)
紫の瞳が、寂しさに微かに揺れる。だが、彼女はもう涙を流さない。
泣くことは「光」である自分を否定することであり、レオンの唯一の救いとしての資格を捨てることと同じだと知っているからだ。
「……いいえ、寂しさを感じてはいけない。
いまは、寂しさを口にしてはいけない──それが私の役目だから」
自分に言い聞かせるように、鍋の火を弱めた。立ち上る湯気が彼女の顔を包み込み、その表情を曖昧にする。
「私がここで光でい続ける限り、レオンさんは闇に落ちきれない。
……彼を『騎士』として繋ぎ止めることができるのは、私だけ。
私だけが、彼の『救い』であり、唯一の『鍵』なのだから」
それは献身という名の、残酷なまでの自負。
自分がいなければ、彼は壊れてしまう。
自分が光を消せば、彼は二度と戻ってこられなくなる。
そう信じることだけが、彼女の崩れそうな心を支えていた。
「だから……私は、ここで待ち続ける。
どんなに汚れて帰ってきても、このスープを飲めば、あなたは私のレオンさんに戻れるように」
宝石姫は、いつもの穏やかな、そしてどこか感情を排した微笑みを浮かべた。
他者を救うために己を削る覚悟と、執着。
玄関の扉が開く音が、空気を震わせた。
血と魔力の匂いを纏った二人の気配を感じながら、彼女は最後の一振りの塩を、スープに落とした。
その塩が、静かな闇の中で、ほんのわずかにきらりと光った。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




