第37話:『一月十四日の損益計算書ー01/14 21:00 執行開始』
第5部:依存度1200%(オーバークロック)
一月十四日 午後二十一時
ド・ラ・ノワール事務所の執務室前で、ヴァルプスは、寸分の狂いもない姿勢でドアの前に立っていた。
ポケットの中で、魔導端末がまた短く震える。主からの、今日何度目かのアラートだ。
(……反応など、いたしませんよ。
ボクはただの『バックアップ』なのですから。
必要な時にだけ呼び出せば、勝手に起動する便利なインフラだと思われているのでしょう?)
画面を見ずとも、レオンが「ヴァルプス、どこにいるの?」「どこ……かな?」と、困ったような顔でメッセージを打っているのが目に浮かぶ。
普段なら一秒で返信するはずの自分が、あえて既読すらつけない。これは、上級悪魔である彼が主に対して行使できる、最大級の「ストライキ」だった。
「……フン。マルヴェイにでも、返信を頼めばよろしいのに」
低く、毒を吐くような呟き。
胸の奥では、主を待たせていることへの罪悪感と、「もっと困らせてやりたい」という歪んだ嗜虐心がせめぎ合っている。
彼は今、「有能な管理者」の仮面を脱ぎ捨て、ただの「愛されたい不良在庫」に成り果てていた。
扉の向こうで、レオンが「ヴァルプスが返信してくれない……」と困惑している気配を、ヴァルプスは壁越しに魔力探査で楽しんでいた。
やがて執務室の扉が開き、中から少し焦った様子のレオンが顔を出す。
「あ……ヴァルプス。……やっぱり、そこにいたんだね。
連絡、届いてなかったかな?」
ヴァルプスは無言で、深々と一礼する。
「……失礼いたしました。
通信環境の不具合で、バックアップ・ラインに遅延が生じていたようです。
……何か、緊急の『予備電力』が必要でしょうか、主さま」
レオンはヴァルプスの頑なな態度を見て指先で自分の額を軽く撫でた。意を決したように扉を大きく開けてヴァルプスを温かい室内に誘導する。
室内だというのにレオンは黒いコートを着ていた。
「……主さま。室内でコートなど。
……これからマルヴェイさんと、夜の戦略会議でも予定されているのですか?」
「……ヴァルプス。今の君は『予備』じゃない。
私、『極秘の事業計画』を作ったんだ。
A.I.D.Aも、これは君の承認(検収)がないと実行できないって言っている」
訝しむように眉を動かしたヴァルプスの冷たい手を優しく握って、金色の複雑な装飾が施された『ポータルキー』をヴァルプスの目の前で起動させる。
行き先は、かつての王族が逃避行に使い、今は地図から消された『白亜の忘却ホテル』。
「君と、私、二人だけだ。 ……行くよ、ヴァルプス。座標は固定済だ」
一瞬の浮遊感。
次の瞬間、二人が立っていたのは、事務所の無機質な廊下ではなく、月光に照らされた古城のプライベート・ガーデンだった。
一面に咲き乱れるのは、この時期にしか咲かない「氷の月光花」。
天井まで届くガラス張りの温室には、月光を吸い込んで淡く発光する白い花々が狂い咲き、甘い香りが肺を満たしていく。
冷たく澄んだ空気の中に、噴水の音だけが数学的なリズムで響いていた。
「主さま。ここは、一体……」
「……マルヴェイが教えてくれたんだ。今日の君が『最も効率的に私を護衛できる』場所だとね」
ヴァルプスは絶句して、繋がれたレオンの手を見つめる。レオンは一度ヴァルプスの手を離し、黒のコートを脱ぎ捨てて見せる。
コートの下から現れたのは、純白のタキシード姿だった。
「……十月までの『利息』を払うには、これくらいの固定資産(場所)を用意しないと、君は納得してくれないと思ったんだ」
月光で発光するシルクサテンの襟。純白のタキシードが露わになった瞬間、ヴァルプスの思考回路は完全にショートした。
昼間にマルヴェイの横で着ていたはずのその「戦闘服」が、今は自分一人を絆すための「誠意」として差し出されている。
ヴァルプスはあまりの眩しさと、レオンの『自分一人への投資額』に混乱した。
立ち尽くすヴァルプスの後ろにレオンは小さな椅子を用意して、彼を座らせる。
「……っ! ……。主さま、あなたは……」
レオンは、震える手で銀色の魔力充填式レーザーポインターを起動した。背後の空間に、巨大な空中ホログラム・スクリーンが展開される。
「……では、これより。
五月の完全移譲、および十月のプロジェクト完遂に向けた、私の『精神的リソースの最適化に関する四半期報告』を始める」
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微かに肩を震わせるヴァルプスを一瞥し、レオンは事務的な顔でスライドをめくった。
【スライド1:十四時における「事務的拒絶」の外的要因分析】
「まず、今日の十四時の『バックアップ格下げ』についてだ。
……あれは、マルヴェイという外部監査の目を欺くための『擬装的デカップリング(分離)』に過ぎない。
君という『一極集中した依存先』を隠蔽するためには、公的な場でああ振る舞うしかなかったんだ」
ヴァルプスは息を呑む。
赤い瞳が、ホログラムの複雑な折れ線グラフを追う。そこには、マルヴェイが「リスク」と呼んだヴァルプスへの執着が、『生存に不可欠な基礎インフラ(水道・電気・ヴァルプス)』として再定義されていた。
【スライド2:非介入期間(五月まで)における依存予測】
「次にこれを見て。……私が一人で戦場(仕事)に出ている間、私の精神的安定度は、君という『帰還先』の存在を定数として計算されている。
……見て、この依存度1200%の推移。
君がいないと、Q2の時点で私の脳はオーバーヒートして停止してしまうんだ」
レオンの声が、わずかに熱を帯びる。ポインターの赤い点が、グラフの頂点を激しく揺らしながら指し示した。
「……つまり、私が外で『自由』でいられるのは、君がこの場所にいてくれるという『絶対的なバックアップ』の保証があるからなんだ。
……君は予備じゃない。私の人生というシステムの、唯一の『根幹』なんだよ」
【スライド3:結論および『利息』の支払い】
最後のスライド。そこにはただ『原点回帰』という文字が並んでいた。
「……以上が、私のロジックだ。
……だから、ヴァルプス。その…『利息』を。本日付で先行決済したいんだ」
レオンはポインターを置き、タキシードのポケットから小さな箱を取り出した。
小箱の蓋を開けると、そこには銀色の指輪が入っていた。
「これは、五月までの『予約金』。
……君に、私を預けるよ。
……承認、してくれるかな」
ヴァルプスは、言葉を失っていた。
昼間の絶望、マルヴェイへの殺意、未読スルーした意地悪。それらすべてが、レオンが提示した「1200%の依存データ」という名の、不器用な証明によって粉砕された。
ヴァルプスは、震える膝をつき、レオンの白タキシードの裾を強く、縋るように掴んだ。
見上げた赤い瞳には、月光よりも鋭い、狂おしいほどの忠誠と……すべてを見透かした「捕食者」の熱が宿っている。
「……レオン。……あなたは」
喉の奥から絞り出すような声。
ヴァルプスは、レオンが提示したデータの「行間」にある真実を、その鋭敏な直感で正確に読み解いていた。
十二月に提示された作戦と、今回の一魔貨契約の乖離。
主が自分を遠ざけようとしている「本当の理由」に、ヴァルプスは気づいている。
(あなたは、ボクが側にいれば、あなたの作戦の妨げになると考えているのですね。だからこの契約(鎖)で、ボクの介入を封じ込めた……)
今すぐ理由を、レオンの思惑を問い詰めたい。だがレオンは答えないだろう。逆に問い詰めることで目の前の指輪に蓋をされることをヴァルプスは恐れた。
どこまでが真実なのか、いまのヴァルプスにはわからない。
だが、目の前で白タキシードを纏い、震える手で小箱を差し出すレオンの「依存度」数値が、ヴァルプスの理性を甘美に焼き切っていく。
(ボクを『バックアップ』と呼び『便利な道具』として扱いながら、同時に『ボクなしでは一歩も歩けない欠陥資産』に自分を追い込んでいる)
「一点だけ、検収(確認)させてください。
あなたがボクを『バックアップ』に格下げしたのは……。
十月にあなたが『壊れた』とき、ボクに、その残骸を拾うことさえ禁ずるためですか?
それとも……必ずボクの元へ、生きて帰ってくるための『約束』ですか?」
ヴァルプスはレオンの青い目をまっすぐ見て問いかけた。レオンの目元が僅かに歪み、冷たい色を乗せる。
「……ヴァルプス。君なら知っているはずだ。
ビジネスに『絶対』はない。私がここで『必ず帰る』と言うのは簡単だが、それは君を欺く無責任なコミットメントになる。
だからこそ、私は君を『バックアップ』に置いたんだ。
……万が一、私が帰れなかった時、私の意志を継ぎ、ド・ラ・ノワールの名を、そして私という存在をこの世に繋ぎ止められるのは、君しかいないからだ」
ヴァルプスは、レオンが差し出した指輪の箱に、額を擦りつけるように深く頭を垂れた。
「……左様ですか。
『必ず帰る』とさえ仰らない、そのあまりに不誠実で……誠実なビジネス・プラン。
承知いたしました、主さま。
その『予約金(指輪)』、確かに検収(お預かり)いたします。
ただし、一点だけ。……ボクの『バックアップ』としての性能を甘く見ないでください。
十月、あなたが帰るのを渋るようなことがあれば……。ボクは地の果てだろうと、天の都だろうと、あなたという『資産』を強引に回収しに参ります。
あなたに拒否権(アクセス権)など、残っていないのですから」
ヴァルプスは顔を上げ、レオンの冷えた手を引き寄せると、その指先に、誓いという名の呪いを込めて深く口づけを落とした。




