『冥光の裁定者』②
第2部:収奪の契約
「……三億」
重苦しい沈黙を破ったのは、円卓の端で骨張った指を窮屈に組んだ老人だった。
老いと強欲に引き連れたその顔面は、今にも恐怖の自重で崩壊しそうに見えた。
現世のあまたの企業を駒として操り、冷徹な策略で上り詰めた銀行家。
誰もが恐れる経済の支配者たる男の瞳には、青い宝石への渇望以上に、獣のように追い詰められた原初的な恐怖が宿っていた。
「三億だ。それで、その石を。
……私の記憶にこびりつく、あの忌々しい鐘の音を消してくれ」
老人の懇願に呼応するように、レオンの傍らに立つヴァルプスの気配が「異常な静寂」へと沈み込み、室内の空気を凍結させていく。
レオンは肺の空気を静かに吐き出し、自らを戒めた。
目隠しのレース越しでも痛いほどに察知できる。
ヴァルプスの身体を構成する霧の粒子が、心臓の鼓動を刻むたびに、砂時計のように崩落しかけているのだ。
レオンは、白い手袋に包まれた指先をテーブルの上へ滑らせた。その意図を正確に汲み取り、ヴァルプスは無言で主の手を執ると、恭しく跪いてその手の甲に自らの額を当てた。
「……三億、ですか」
ヴァルプスの声は凛と澄んでいたが、背後のカーテンが薄く透けるほど、その輪郭は現世の座標からブレて揺れていた。
「主さまは仰っています。
……あなたの罪の積載量に対して、その金額はあまりに『誠意(現在価値)』が足りないと」
「な、何だと……!?
三億だぞ! 現世の凡俗どもが一生を売っても拝めぬ巨額だ!」
「現世の紙切れに、我が主の『奇跡』を査定する資格などありません」
ヴァルプスの冷徹な宣告が、老人の神経を逆撫でする。
背後の空間が歪み、不可視の魔界の重圧が地下室を圧殺せんばかりに膨れ上がる。
老人は椅子から転げ落ちそうになりながら、必死に爪を立てて耐えていた。
レオンは黒レースの奥で、昏い愉悦をそっと咀嚼した。
本音を言えばこの醜悪な老人をそのまま凍土に変えてやりたい。
だが、それでは「穏便な清算」とは言えず、担保を握られているヴァルプスの負荷を増すだけだ。
(静かにしろ、ヴァルプス。
……こいつには、真の『時価』を教えてやるだけでいい)
レオンの意志を受け、ヴァルプスの唇から、有無を言わせぬ絶対的な裁定が下る。
「……金ではない。あなたが肥大化させてきた、その『醜い執着』のすべてをこの石に預託してください。
……そうすれば、あなたの影は消え去るでしょう」
「執着を……すべて……?」
「そう。
……三億のキャッシュと、あなたの残る余生すべて。
……それで、この滴を譲渡する。そう主さまは仰っています」
救済という名の、完全なる資産収奪。
それは絶望する者に希望を融資し、その実、魂の根こそぎまでを担保として巻き上げる、呪いのようなデット(債務)契約だった。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




