第36話:『一月十四日の損益計算書ー01/14 16:00 執行開始』
第4部:債権者の空白時間
一月十四日 午後十六時
事務所近くの老舗喫茶『銀の匙』の店内には、整然とした数学的構造を持つバロック音楽が流れていた。
護衛たちの視線が届かない一番奥の指定席。
本来なら、世界経済を動かすCEOの右腕が、こんな煤けた壁の喫茶店で時間を潰すなど、リソースの無駄遣い以外の何物でもない。
だが、今の彼には、この「事務的な空白」が必要だった。
ヴァルプスは、寸分の狂いもなく整えられたダークカラーのスーツに身を包み、琥珀色のダージリンを見つめたまま固まっていた。
一般の客から見れば、それは仕事の合間に思考を巡らせる「非の打ち所がない若きエグゼクティブ」の姿だ。だが、その実態は、噴火を契約という名の蓋で押さえ込まれた、内部崩壊寸前の活火山であった。
規則正しく刻まれるチェンバロの音色と、抑制された弦楽器の旋律。
ヴァルプスにとって、その調和は心地よいものではなく、むしろ自身の「管理の不徹底」を嘲笑う、完成されたノイズに等しかった。
「……お代わりをください。
それと、白苺のコンフィチュールを添えたスコーンも」
無意識に注文したのは、自分ではなくレオンの好物だった。
すぐに運ばれてきたスコーンの甘い香りが、鼻腔を抜ける。それがかえって、昼間に刻まれたマルヴェイの嘲笑を鮮明に引きずり出した。
『君の案、『一極集中による依存リスク』が極大すぎて、レオンの自由……つまり市場価値を損なってたんだ』
「……重すぎる、だと?」
ヴァルプスの低い呟きが、ティーカップの縁を震わせる。
店内のチェンバロの音が、まるでマルヴェイの指先がキーボードを叩く音のように脳内で再生された。
(ボクが長年にわたって積み上げてきた『統治』を、あのような軽薄な男に『依存リスク』と断じられるとは……)
無意識に、右手の指先がテーブルクロスの上で、レオンのバイタルデータを更新するようなリズムを刻む。だが、端末に映る主の心拍数は、自分と離れている今この瞬間の方が、皮肉なほどに安定していた。
自分が隣にいなくても、レオンの世界は、事務的に、円滑に、回り続けている。
「……っ」
ヴァルプスは、添えられた白苺のコンフィチュールを、殺意を込めるようにスコーンへ塗りたくった。
濁りのない、しかし意志の強さを感じさせる淡桃色。
(……そうだ。あいつ、不遜な笑みに揺れる髪も、この色だった。
レオンは、あんな男の色を『美味しい』と仰るのか。あんな男が編み上げた理屈を、心地よいと仰るのか)
彼は震える手で、その桃色を乱暴にスコーンに叩きつける。
「……不快だ」
甘い香りの中にマルヴェイの柔らかな花の香りが漂ってきたような気がして、ヴァルプスは嫌悪感と共にスプーンを放り出した。
レオンは今、あの男と「合理的」な未来を語り合っているのだろうか。ヴァルプスという重荷を下ろし、軽やかになった足取りで。
(バックアップ……。予備、ですか)
琥珀色の液体に映る自分の顔が、ひどく惨めで、救いようのない執着に塗れている。
ヴァルプスのプライドは、この銀のスプーンを握りつぶし、今すぐ隣のビルへ殴り込むことを命じている。だが、レオンから手渡された【Rev.04】という名の鎖が、彼の理性を冷たく縛り上げていた。
(……いいでしょう、レオン)
ヴァルプスは、一口もつけなかったスコーンの皿を遠ざけ、伝票を掴んだ。
伝票を手に取るその手元はゆっくりと落ち着いていたが、その瞳には、絶望を通り越した、昏い「管理者の執念」が宿っている。
店を出るヴァルプスの背中からは、バロックの調べさえ凍りつかせるような、冷徹な殺気と狂おしいほどの熱が立ち上っていた。
主が指定した二十一時までは五時間余り。
彼はその時間を、主への怒りではなく、「二度とボクを離せなくなるほどの完璧な利息」を搾り取るためのシミュレーションに費やすことに決めた。
店を出る彼の背後には、霜のついたテーブルと、主への渇望に狂う悪魔の影が、長く、色濃く伸びていた。




