第35話:『一月十四日の貸借対照表ー01/14 13:58 執行開始』
第3部:格下げの聖域
一月十四日 午後十三時五十八分
事務所最上階、CEO執務室。
そこは一時間前から、外界とは切り離された「静謐な祭壇」と化していた。
ヴァルプスは、銀の盆に乗せた最高級の万年筆を、指先でミリ単位で整える。室温はレオンの好む摂氏二十二度に固定されていた。
ヴァルプスは目を閉じ、契約完了後にレオンを「隔離施設(聖域)」へ運び込む最短ルートを脳内で反芻する。その赤い瞳には狂気的な安堵が宿っていた。
一四時ちょうど。
「――やあ、ヴァルプス!待たせてごめんね」
快活な声と共に扉が開いた。入ってきたのは微笑みを浮かべたレオンだ。
ヴァルプスは深々と一礼し、震える手で万年筆を差し出す。
「……主さま。お待ちしておりました」
「ああ。だがその前に、ヴァルプス。君に感謝の意を伝えたい」
レオンはヴァルプスの前に立ち、その肩にポン、と親愛を込めて手を置いた。空気が揺らぎ、ヴァルプスの鼻に微かな花の香りが届く。
「朝の草案をマルヴェイと精査したんだが、彼のアドバイスで、より『戦略的な』修正を加えさせてもらった。
……専門家の意見は取り入れるものだね。驚くほど透明性が上がったんだよ」
「……しゅ、修正、ですか?」
ヴァルプスの脳内に、嫌なノイズが走る。
レオンはヴァルプスにソファに座るよう促す。ヴァルプスが座ったのを確認後、レオンは脇に抱えていた「契約書:第0114-Rev.02号改訂版」を、まるで新しいカタログでも見せるような軽やかさで机に広げた。
「君からの草案は、『検収不可』ということになる。Q4プロジェクトにおけるリスクヘッジが全く機能していなくて……
それで、執行日を五月二十二日に延期することにしたんだ」
ヴァルプスが捧げ持っていた万年筆が、握力に耐えかねて真っ二つに折れた。
「……五月、……いま、なんと……?」
無表情でヴァルプスが問い返す。するとレオンの後ろからマルヴェイが顔を出し、ヴァルプスに微笑みかけた。
「やぁ、ヴァルプス君。君の案、『一極集中による依存リスク』が極大すぎて、レオンの自由……つまり市場価値を損なってたんだ。
私が高度な分散投資(ポートフォリオの再編)として、リフォームしてあげたよ」
ヴァルプスは契約書を震える指でなぞり、記載されている内容を把握する。
「……バックアップ。ボクは、予備……だとおっしゃるのですか。
私の献身を、マルヴェイさんの一筆で……!」
(なぜ……なぜ貴様なんだ、マルヴェイ。
主さまの隣に立ち、その『バグ(純粋さ)』を面白がりながら、ボクを遠ざける鎖を編み上げたのは……。ボクの管理が『重い(リスク)』だと主さまに吹き込んだのは、貴様の差し金か!)
ヴァルプスは屈辱を感じた。ヴァルプスにとって、レオンへの献身は「絶対的な聖域」だった。それをマルヴェイに「一極集中による依存リスク」という無機質なビジネス用語で切り捨てられたことが、何よりも許せなかった。
「おっと、怒らないでよ。君の仕事は『レオンが外で暴れて汚れても、いつでもピカピカに洗ってあげるための水道局員』に格上げされたんだ。光栄だろ?
君の言う『管理(独占)』なんて、ただのコストの無駄遣いなんだよねぇ」
「……不服があるならA.I.D.Aに再計算(ログ確認)させなさい」
レオンはヴァルプスと向かい合うようにソファに座り、膝の上で両手を組む。
「マルヴェイとA.I.D.Aに頼んで、『私が私を失わず、かつ君を一生失わないための、最も強固な防壁』を計算し直してもらったんだ。
この『バックアップ』という言葉……マルヴェイは事務的だって言うけれど、私にとっては違う。
『何があっても、最後には君のところにしか帰らない』っていう、私の人生の唯一の終着駅を、本日付で君に予約させてもらうための言葉なんだ」
レオンはヴァルプスの揺れる瞳を拾い上げるように小首を傾げ、下からヴァルプスを見つめる。
「……五月まで、私のわがままに付き合ってくれるかな?
君という『最強の帰還先』があるからこそ、私は十月まで全力で走れるんだ。
……ねえ、ヴァルプス。これは、私から君への『表明』だよ」
「……承知しました」
軽く眉を寄せたあと、ヴァルプスは頷いた。頷くしかなかった。
ヴァルプスは低く、掠れた声で笑った。レオンは「ポンコツな合理性」を武器に、自分を『便利な予備電源』へと定義し直したのだ。
憎しみと愛しさが混ざり合い、視界が歪む。ヴァルプスはレオンに捨てられたのではなく「マルヴェイに唆されたレオンが、ビジネスに走りすぎている」と解釈し、レオン個人への殺意を抑え込んだ。
レオンが望むのであれば、その地獄さえも甘美な職務となる。
レオンはヴァルプスの前に契約書を広げなおす。
ヴァルプスは躊躇いなく、左手の親指を牙で噛み切った。
滲み出た赤黒い血が、署名欄の「乙」の文字の上に、禍々しい悪魔の紋章を刻印していく。
その瞬間、室内の空気が一変した。
書類の境目に二人の印が重なる「契印」がなされた刹那、契約書が淡い燐光を放ち、世界という名のシステムに「確定」の概念が登録される。
『……照合完了。第0114-Rev.04号、正式受理』
虚空からA.I.D.Aの無機質な音声が響き渡る。
『これよりXXXX年十一月まで、乙への介入制限プロトコルを強制執行します。……成功をお祈りします、CEO』
という高周波の共鳴音とともに、ヴァルプスの首と手首に「不可視の鎖」が巻き付いた。
ヴァルプスは指先に残る血の熱さと、胸を圧迫するような「帰還先」としての重い制約を同時に感じ、恍惚とした絶望の中で目を閉じる。
――同時に。
逆にレオンの背後には、ヴァルプスという巨大な魔力溜まりから伸びる不可視のパイプが接続される。それは、どれほど戦場で泥を被ろうとも、最後には必ずここへ引き戻されるという、暴力的なまでの安寧の加護だった。
「……調印、完了だね」
レオンは満足げに微笑み、背筋を伸ばして己の胸の上に右手を添えた。
「期待しているよ、ヴァルプス」
その無垢な残酷さが、ヴァルプスの心を木っ端微塵に打ち砕き、同時にこれ以上ないほど強く縛り上げる。
悪魔は、屈辱に濡れた瞳で主を見上げ、頭を下げた。
「……承知いたしました。
十月まで、ボクはあなたの完璧な『拠点』でいましょう。……存分に、世界を翻弄してきてください。主さま」
執務室に残されたのは、血の香りのする契約書。
そして、一人の「自由なCEO」と、彼を永遠に待ち続けることを誓わされた「最強のバックアップ」だった。




